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プロ野球の助っ人外国人のおもしろ(ダメダメ)エピソード

日本プロ野球に入団した、助っ人外国人たちのおもしろエピソードのまとめです。

更新日: 2014年01月14日

katozouさん

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読売ジャイアンツ

2011年5月1日、横浜戦で先発した際に4回2死から突如制球が定まらず、6番吉村から4者連続四球を与え、3回2/3を5失点で降板した。「人類史上、あんなに続けて歩かせることはそうそう起こることではない」と独特の言い回しで悔しさをにじませた。

2011年9月3日のヤクルト戦。代打として打席に立ち、見逃し三振に倒れた。その後、ピッチャーと変わったため守備につくことがなく、その試合は1打席のみの出場だった。するとその試合の終了を待たずに、クラブハウスへ戻ってしまった。
10月1日、球団はライアルとの今シーズンの契約を解除しました。

2011年1月7日、読売ジャイアンツに1年契約で入団したが、東日本大震災直後の3月15日に球団に無断で帰国、同月末に「再来日の意思がなく引退する」と連絡があった。4月2日に制限選手となり、同月末には、当人から「いかなる場所でももう野球はやらない」と通告があり、4月26日に任意引退しました。

2005年、読売ジャイアンツに入団。
4月1日、4月5日と連続救援失敗。二軍で再調整することをミセリに促すが、「本人の同意なしに二軍に落とすことが出来ない」という契約条項を盾にミセリが拒否。
4月6日の横浜戦では延長11回に巨人が1点リードしてセーブ条件が整ったため、横浜ファンから「ミセリコール」が巻き起こった。開幕から1ヶ月も経たない4月19日に球団史上最速で解雇に至った。

2004年、近鉄バッファローズとの交渉決裂により、読売ジャイアンツに入団。
2005年4月26日の対東京ヤクルトスワローズ戦で、9回表にラミレスが放った左中間への打球を追わなかったことを弘田澄男に「緩慢プレー」と指摘されると、激高して弘田に掴み掛かるなど激しい口論となった。
試合も敗れて、ドームから宿舎に向かう通路で報道陣からこの騒動について問われると、「負けたのは俺のせいだと弘田さんが言った。日本で10年間やってきたけど尊敬がない。投手があれだけ打たれるのも俺のせい? ピッチャーも悪い。みんな悪い。ジャイアンツ下手くそ。ジャイアンツ大嫌い。東京に帰る」と日本語でまくし立てた。

2003年に読売ジャイアンツに入団。
1死走者一・二塁でヤクルトの攻撃中、鈴木健のレフトフライを取った後に、アウトカウントを間違えて3アウトだと勘違いし、ボールをスタンドに投げ入れた。このプレーにより二塁走者には2個の安全進塁権が与えられ、ヤクルトは同点に追いつき、先発投手の高橋尚成は完封を逃した。

ロッテ退団後、年俸2億5000万円の2年契約で1997年に読売ジャイアンツへ移籍。
即座に左肩を故障し、1997年はわずか2試合の登板にとどまる。この年に肩の手術を行い、翌1998年のキャンプで「肩に違和感がある」という理由で再度離脱。
その際に「左肩に小錦が乗っているようだ」と球史に残る迷言で弁明する。

その後も「肩に違和感」というフレーズを連発して登板拒否を繰り返し、「ミスター違和感」と呼ばれた。二軍落ちしてからは練習もそこそこに切り上げ、昼には帰宅していたことから「昼マン」と揶揄される。結局、この年は1度も登板せずシーズン途中で解雇となりました。

1996年に巨人の春季キャンプに志願しテスト生として参加し合格。
いきなり16勝をあげ、最多勝利のタイトルを獲得しました。

1998年7月31日の阪神タイガース戦、球審の判定への不満が募り、長嶋茂雄監督が投手交代を告げた後、ベンチに退きかける途中に、振り返って球審めがけてボールを投げ付けた。残りのシーズンの出場停止、および巨人軍から「無期限出場停止及び罰金4000万円」という処分が下された。

1996年に年俸1億5千万円で読売ジャイアンツに入団。
オープン戦で放った安打は僅か1安打。マントが記録した1打点はセンターへの犠牲フライ。実況担当者は「さすがメジャーのパワーですね」とコメントしたが、解説者は「ほかの打者なら軽くスタンドに入っている」とバサリ。あまりの低調ぶりに、渡辺オーナーは「クスリとマントは逆から読んだらダメなんだ」と言い捨てた。

1994年、読売ジャイアンツに入団。
ヤクルト戦西村龍次の内角球がきっかけで乱闘騒ぎに。
内角球に激怒したグラッデンは西村に詰め寄り、ヤクルトの捕手中西親志が制止しようとしたがグラッデンが振り切り、中西をキャッチャーマスクの上から殴り中西もグラッデンの顔面をミットで殴る等応戦し、本塁上で殴り合いとなる。金属製のマスクの上から殴った上、手加減無しで中西にアッパーカットまで繰り出したせいか左手小指と右手親指を骨折し帰国。この年で引退した。

1986年の春季キャンプ期間中に読売ジャイアンツに入団。
恐ろしいほどの水虫の持ち主で、水虫はスパイクが履けなくなるほどに悪化し二軍落ちという経験があります。
チームメイトからはサンチェの靴下と一緒に洗濯してくれるなという悲痛なリクエストがあげられていたという。

1976年に来日。巨人軍で、初めてメジャーリーグ出身の外国人投手。
同点の場面で交代を告げられると、ベンチ裏のロッカーに戻るなり、ユニフォームをビリビリと切り裂き、それを風呂の湯船の中に捨てたり、多摩川での練習にはほとんど参加しなかったりと、やりたい放題。

神宮でのヤクルト戦で乱闘騒ぎを起こし、退場。そのまま帰宅してしまったため、退団させられました。

中日ドラゴンズ

2008年に中日ドラゴンズに入団。
2004年にドミニカ人グループが画策した偽装結婚疑惑に関与し解雇され、さらにビザ発給の永久停止処分を受けてアメリカから国外追放となった。
そのため、来日の際はアメリカへの入国自体を禁止されていたためアメリカを経由できず、ヨーロッパ経由で入国した。2010年には、キャンプ地の沖縄から移動する際に那覇空港での手荷物検査の際に鞄から実弾が見つかり銃刀法違反容疑で逮捕された。
2011年現在、中日ドラゴンズに在籍中。2011年の開幕投手を務めています。

千葉ロッテマリーンズ

2008年5月4日、千葉マリンスタジアムでの西武戦で二塁守備時に栗山巧が打った一二塁間を抜けようかという打球にグラブを投げて止める「グラブ投げ付け事件」をおこす。

西武の黒江透修ヘッドコーチ(当時)はこのプレーについて「40年以上の野球人生で見たことがない」と発言している。

福岡ソフトバンクホークス

1995年に推定年俸4億円以上で福岡ダイエーホークスに入団。
シーズン開幕戦で、史上2人目の初打席満塁本塁打を放ち活躍が期待された。

しかし、シーズン途中で病気療養を理由に一時帰国した際、「無断帰国」と報じられるなど、ミッチェルの名は「問題児」「不良外国人」のレッテルが貼られ世間に知られることとなった。2度目の無断帰国をした8月にダイエーはミッチェルを即刻解雇しました。

2012年に福岡ソフトバンクホークスに入団。
メジャーリーグのオールスター出場2度。ドジャース時代の06年最多勝。メジャー通算319試合119勝99敗。

日本では2012年4月4日楽天戦で先発した1試合、3回3分の1、7安打6失点で降板し、64球の投球だったが、試合後「右肩が痛い」と訴え、翌日には出場選手登録を抹消される。すると、福岡市内の病院で検査を受け、異常なしとされたにも関わらず、7日にはそそくさとアメリカへ帰国、そのまま退団となりました。

阪神タイガース

2009年、阪神タイガースに入団。
シーズン前から、メジャー1の頭のサイズという触れ込みで注目を集めた。

オープン戦に入ると140キロ前後の速球にさえ対応出来ない弱点を露呈して、不振をきわめる。同じく不振にあえいでいた横浜のジョンソンとどちらが先にヒットを打つかで話題になりました。

その後、一軍に復帰することはなく、夫人の出産に立ち会うため7月24日に帰国。その帰国前に南信男からも「(メンチは)来年(も)いることはない」と発言され、再来日することなく11月6日に退団が正式発表された。

2007年、阪神タイガースに入団。
セットポジションでグラブをいったん停止させることができず、球団史上初の1イニング2ボークを記録。8月にはNPB記録を塗り替える1シーズン12ボークを記録し、直後の打者へ死球を与え、危険球退場となってしまいました。

即座にジャンは二軍落ちとなり、「もうドミニカに帰りたい…」などと情けないコメントを吐露。心中通りにその後一軍のマウンドに上がることはなく、2007年オフに解雇となりました。

2001年に阪神タイガースに入団。ファンやマスコミから「バースの再来」と騒がれた。シーズン途中に左肩を負傷し、その後も試合に出場したものの状態は悪化。左肩関節唇損傷と診断され治療のため帰国し、同年オフに解雇された。
2003年には中日ドラゴンズに入団。2001年に所属した阪神と同様に打撃力不足に悩む中日でも「大砲」として期待された。2001年同様オープン戦では活躍するも開幕後は成績を残せず、オフに退団。

メジャー通算37本塁打の実績で2001年に阪神タイガースに入団。
同僚のイバン・クルーズが「バースの再来」と叫ばれる中、ペレスも「オマリーの再来」などと言われるが、春季キャンプで膝を故障し、その後も「バッターボックスで間合いが全く取れていない」と指摘されるなど問題点が続出し、100打席以上ホームランが出ないなど目立った活躍ができずに1年で阪神を解雇された。

2000年に阪神タイガースに入団。
オープン戦では本塁打を打った後に野村克也監督公認で試合を抜け、かつて夫人がバックダンサーをしていたマライア・キャリーのコンサートに行くなどし、余裕も垣間見られた。しかし、打力の無い阪神が期待する程の成績は十分見せられず、同年限りで退団となり、帰国した。

打てなかった時期にバントヒットを狙ってアウトになった時には、解説者から「主砲不在のこのチームに、誰もバントヒットする助っ人なんか求めてない!」と言われた。

1998年から1999年までの2年間、阪神タイガースでプレー。
1999年7月18日の対巨人戦では、1点ビハインドの6回表2死二塁で高橋由伸がファーストゴロを打った際、ベースカバーに走ったが、ベースを踏んでないためにセーフとされ、抗議したメイは審判の胸を突き、暴力行為で退場となった。抗議をしている間に二塁ランナーが生還してしまい、この失点が響いて阪神は2対3と競り負けた。

2000年から読売巨人軍に入団するが、2000年6月7日の対阪神戦で元チームメイトの和田豊が3回続けて打席を外した際、和田に危険球を投げて問題になった

1997年に球団史上最高額の年俸3億円超という条件で阪神タイガースに入団。
しかし、シーズン前の春季キャンプ途中で背中の痛みを訴え一時帰国してしまい、再度来日したのは4月下旬。
5月11日の対巨人戦で自打球を右足甲に当て骨折すると、「野球を辞めろという神のお告げ」と突然引退を宣言し、5月16日には帰国してしまう。

1994年、阪神タイガースに入団。
外角低めの変化球をことごとく空振りして三振を量産した。
三振率は4割近い396。「2億7000万円の大型扇風機」と揶揄された。打った本塁打の大半はデーゲームで、鳥目なのではないかという説もあった。8月に右手親指靭帯断裂で帰国し、そのまま退団となった。
引退後指導者になった彼のセリフが「俺みたいなスウィングだけはするな」

1989年に阪神タイガースに入団。
同年9月14日の対巨人戦(東京ドーム)で、水野雄仁から三振を喫した際、腹いせに地面に叩きつけたバットが手に当たり骨折し一時帰国した。

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