1. まとめトップ

【まさに死の行軍】八甲田雪中行軍遭難事件まとめ【これはあかん】

明治35年1月に起きた八甲田山雪中行軍遭難事件のまとめ。今振り返ってみても恐ろしい事件です。

更新日: 2014年06月18日

72 お気に入り 947759 view
お気に入り追加

八甲田山とは?

東北、青森市の南側にそびえる火山群の総称。「八甲田山」と名がついた単独峰は存在しない。岩木山と同様 本州最北部にある火山群。

てっきり山の名前かと思ってましたが実は火山群の総称なんですね

美しいが気温が-30度〜40度にもなることがある過酷な冬がある

強風によって吹き付けられる雪が木に張り付いて、まるで何かの生き物のような形状を作り上げる

そしてこの過酷な冬が有名な事件を起こした....

八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季に雪中行軍の訓練中に遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)する、日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者が発生したことで記憶されている。

八甲田雪中行軍遭難事件がどれくらい悲惨だったかというと....

小便をしたくても手が凍傷にかかり動かせず、尿意に負けて垂れ流しをするが、それが瞬時に凍って凍死する者

発狂して裸で雪の中に飛び込む者の姿があった

軍医は腕に気付け薬を注射しようとしたが、皮膚まで凍っていたため針が折れてしまった

なぜ事件は起きたのか?

原因は諸説あるが、決定的な原因ははっきりしていない。以下有力な説

気象条件

行軍隊の遭難した山中の気温は、観測係であった看護兵が記録も残せず死亡したため定かでないが、-20℃以下だったとの推測を青森5連隊が報告書の中で残している。この過酷な気象条件が遭難の一大要因と考えられる。

稚拙な装備

雪中行軍時、将兵の装備は、特務曹長(准士官)以上が「毛糸の外套1着」「毛糸の軍帽」「ネル生地の冬軍服」「軍手1足」「長脚型軍靴」「長靴型雪沓」、下士卒が「毛糸の外套2着重ね着」「フェルト地の普通軍帽」「小倉生地の普通軍服」「軍手1足」「短脚型軍靴」と、冬山登山の防寒に対応しているとは言い難い装備であった。とくに下士官兵卒の防寒装備に至っては、毛糸の外套2枚を渡されただけである

指揮系統の混乱

雪中行軍隊の総指揮者は行軍隊隊長の神成大尉であるが、これに山口少佐と若干名の大尉や見習士官、長期伍長が行軍隊付きとして同行する形になった。責任者は神成大尉ではあるが、階級と本来の職務の関係からすると山口少佐は上司にあたり、同行してきた大尉達は神成大尉と同格の指揮官になる。途中からは、山口少佐が神成大尉に断りもなく独断で指揮をしていたとの証言もある。いずれにせよ、大隊本部の随行が意思決定の不統一になった。

極端な情報不足

神成大尉が雪中行軍隊の指揮を任されることになったのは、行軍実施の直前(3週間くらい前)である。それまでの担当者は夫人出産の立会いのため、任を解かれる形となる。その為、実際の雪中行軍に対して神成大尉は何も予備知識を持たないまま準備作業に入る

認識不足

雪中行軍参加者のほとんどは岩手県、宮城県の農家の出身者であった。いかに寒冷地の出身者と言えども、このような者は厳冬期の八甲田における防寒の知識(八甲田の雪は綿雪と呼ばれ、岩手や宮城の湿雪とは全く性質を異にする)など皆無に等しかった

それでも生存者はいた

訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)

生存者のその後

手や足を切断された下士官・兵は除隊し、故郷へ帰った。
当然、地元では八甲田の生き残りとして英雄扱いされ、嫁の希望者が殺到した。

最後の生き残りの方が亡くなったのは昭和45年2月5日。

小原忠三郎伍長、享年91歳だった。
その小原さんが使っていた義手義足が、八甲田山馬立場付近の『鹿鳴庵』に展示されている。

営門の怪〜やっぱりあったこわい話

1 2





nakanopandamanさん



  • 話題の動画をまとめよう