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今年で発行から100年 夏目漱石の「こゝろ」を読み解く

夏目漱石のこころは2014年で発行から100年を迎えます。読んだことの無い人にはぜひ読んでほしい。

更新日: 2014年07月28日

grtn89さん

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1914年に発行された夏目漱石の「こころ」

夏目漱石が亡くなる2年前に書かれた晩年の名作

今まで読んだことの無い人、読んだけどいまいちよくわからなった人は
ぜひもう一度読んでほしい。

あらすじは……

明治末期、避暑地鎌倉へ旅行に来ていた「私」は、「先生」という人物に出会う。
先生は、東京で奥さんと二人暮らしをしているが、仕事はせず、人との交流を好まない。
私は、そんな先生のもとを頻繁に訪ねるようになっていた。
そのうちに、私は先生の心に巣食う「過去」に触れる。

しかし、その後私は父の病床を見守るため実家に帰省することに。
その間にも先生に何通も手紙を送るが返事が来ることはなかった。
幾日が経ち、明治天皇の崩御、乃木大将の殉死、「明治」が終わりを告げた頃
父の容体が急変し、周りがあわただしくなる中、先生から一通の手紙が届く。
父が何とか峠を越えた時、私はやっと先生の手紙を読むことができた。
しかし、目に飛び込んできたのは
「此手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもう此世には居ないでしょう。
 とくに死んでいるでしょう」
という遺言めいた言葉であった。私は急いで東京行きの列車に乗り込みはやる気持ちを抑えて
手紙の続きを読み始めた。

その中には、両親を早くに亡くし、遺産管理を任せていた叔父の裏切り
(人を信じることしかできなかった自分の無知さへの恥じ)
そして、同じ人を好きになってしまった友人を欺き、結果的に自殺へ追い込んでしまったこと
への自責の念が書かれていた。

「あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」

その言葉で締めくくられた先生の遺書を読み終えたところで、この物語は終わる。

発行当時の広告文

自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む。

最初は短編集であった「こころ」

当時の予告には数種の短篇を合してそれに『心』といふ標題を冠らせる積〔つもり〕だと読者に断わつたのであるが、其短篇の第一に当る『先生の遺書』を書き込んで行くうちに、予想通り早く片が付かない事を発見したので、とう/\その一篇丈〔だけ〕を単行本に纏めて公けにする方針に模様がへをした。

こころの前身、「先生の遺書」を書くことになったわけ

夏目漱石がこころの前身である「先生の遺書」(おそらく本編、下の先生と遺書)
を書くきっかけとなったのは、陸軍大将・乃木希典の殉死にありました。

夏目漱石が乃木希典に見た「明治の死」

明治天皇の大喪の礼の日
腕に喪章をつける夏目漱石

現在も、明治を象徴する人物としてあげられる乃木希典
嘉永2年に生まれ武士として、その後明治に代わってからは陸軍の大将として
その後は、学習院院長として教育にも携わっていました。
日露戦争での功績は世界でも称賛され、他国からの勲章を受けるほどであった。
しかし、乃木希典はその日露戦争で多くの犠牲者を出したことを深く悔いており
自責の念を感じていたのです。
その後、明治天皇大葬の大正元年9月13日、妻静子とともに
自らの喉を刀で突き刺し自刃しました。

当時世間を吹き荒れていた「明治の精神への批判」

明治末期、自由主義を背景に、理想主義、人道主義、個人主義な作品を制作する
「白樺派」という文芸思潮が現れました。
白樺派を謳う人々は、「明治の精神」に象徴される武士道の精神や時代遅れな封建制
を批判し、より海外の文化に触れ視野を広げることで未来へと進むことを良しとし、
生前から、乃木希典を批判の対象としていました。
同人誌「白樺派」で作品を掲載していた作家の多くは学習院出身であり
乃木希典の教え子でもありました。

そんな彼らは、乃木希典の死後、明治天皇の後を追い殉死したことを
「前近代的行為」と冷笑的な態度をとっていました。

夏目漱石が「こころ」に封じ込めた「明治の精神の死」

「こころ」の作中で、Kを自殺に追い込んだことに長年苦しめられ
やがて時期を経て、自殺をした先生と
日露戦争で多数の犠牲を払い、十数年を自らを苦しめながら生き
忠誠をつくした明治天皇の崩御後、殉死した乃木希典。
夏目漱石は、先生という人物を明治の精神の象徴として
作品に残していったのです。

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