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中東問題がどうしてこうなったか歴史的経緯がよく分かるまとめ

パレスチナ人問題・クルド人問題・ユダヤ人問題が中東においてどのように拡大していったのかをまとめました。

更新日: 2015年12月31日

palezioさん

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中東問題に関する誤解

中東問題は宗教の問題ではない

イスラム教とキリスト教の宗教戦争であるかのように錯覚している人が多いですが、そもそもパレスチナ人問題・クルド人問題はなぜ中東に生じたのでしょうか?

そもそもこれらの問題の原因は、イギリス、アメリカ、そしてそれを支えた資本の動きにありました。

この子以前にも打ち上げられた子供の遺体は数多く報道されてた訳で、「良心を揺さぶるが見るに堪えうる適度に綺麗な状態」が受けたのかと思うと若干悲しい

ヨーロッパから持ち込まれた中東問題

かつて、宗教・民族に寛容だった巨大国家が存在した。

ヨーロッパ列強の侵略が行われるまでの19世紀まで600年以上にわたって、イラクから北アフリカまでの広大な地域は、オスマン帝国の支配下にありました。

オスマントルコはイスラム教国ですが、宗教に寛容で、キリスト教徒やユダヤ教徒なども許されていた国でした。

イギリスの秘密外交

中東問題の諸悪の根源となったイギリスの三枚舌外交

イギリスが第一次世界大戦の中でとった三枚舌外交と呼ばれる不誠実な外交施策はのちの中東を混沌とさせました。

イギリスが、国際的にサイクス・ピコ協定、バルフォア宣言、フサイン・マクマホン協定は同時に実現できない矛盾した約束をしたという黒い歴史があります。

オスマン帝国打倒への協力の見返りにアラブ人の国家建設への協力を約束したイギリス、しかし約束は守られなかった。

1915年、メッカの太守であるフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でやりとりされた書簡の中で、イギリスは第一次大戦における対トルコ戦協力(アラブ反乱)を条件にアラブ全域をまたぐ大きなアラブ人居住地・統一国家の独立支持を約束しました。

これが、遂に守られることのなかったフサイン・マクマホン協定です。

イギリスは、アラブ人との約束をしながら、中東をフランス・ロシアと3分割する秘密協定を結んでいた。

第一次対戦後イギリスとフランスは「サイクス・ピコ協定」により中東地域を分割する約束をします。主に植民地支配権と、資源利権の分配を意図していました。

サイクスとピコは、それぞれ青と赤のペンで自分たちの領域を分け、パレスチナを別の色にしたと言われています。地図中の黄マルは、現在の国名を示しています。このときの分割は、現在まで影響を与え続けています。

さらにイギリスは、ユダヤ人に対して、イスラム教の聖地のあるパレスチナへのユダヤ人国家建設を約束していた。

1917年、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ人コミュニティーのリーダーである第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明されました。

バルフォア宣言では、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束しています。結果的に、中東に存在しなかったユダヤ人国家イスラエルの建国を認めた宣言となりました。

二つの巨大な民族問題、クルド人問題とパレスチナ問題が作られた。

サイクス・ピコ協定でフランスとイギリスによって引かれた恣意的な国境線により、クルド人はトルコ・イラク・イラン・シリア・アルメニアなどに分断され、世界最大の国を持たない3000万人の民族集団が発生しました。そして、アラブ人に約束した、一個の大きなアラブ人王国を作るという約束も反故にされたのです。さらに、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教の共通の聖地のあるエルサレムを、分割し、ユダヤ教徒に占有させることを認めてしまったのです。

イギリスのユダヤ人が、資本によってイギリス政府を動かし、パレスチナの土地を、元々住んでいたパレスチナ人とは無関係な場所でイギリスに中東の未来を決定させた。

本来、その土地の人々が自ら判断する権利を持つべき(民族自決の原理)という考え方は全く無視されてしまったのです。
第二次対戦後、この土地からパレスチナ人を追い出して、イスラエルが建国されることになりました。現在まで解決しないパレスチナ難民問題の原因となっています。

イスラエル建国

追い出される理由はなかったのに追い出されたパレスチナ人

第二次世界大戦と全く無縁のパレスチナ人はなぜ、パレスチナの土地から追い出されなければならなかったのでしょうか?ましてや、それは「国際連合」の決議に基づいていたのです。

第二次大戦後、処理できなくなったイギリスは国連に問題を丸投げし、1947年に国連でパレスチナをユダヤ国家、アラブ国家、国連関連管理地区の3つに分ける分割案が採択されました。

ユダヤ人は票になるが、アラブ人は票にならない

時の米国の大統領トルーマンは、公然とこのように述べた。すでに米国ではユダヤ人によって経営される企業・組織が支配的となっており、政府の判断を動かせるほどに成長していました。

その決定をユダヤ人側は受け入れたのですが、パレスチナ側は拒否しました。そもそもこの一方的な提案が国際連合に提出されたのも、ユダヤ人側の働きかけによるものでした。

分割といっても、公平性はありません。パレスチナ人・アラブ人からみたら、そもそも居なかったはずのユダヤ人が一方的に国家を設立し、しかもエルサレムという宗教的に意味のある土地を占有する権利を独占させることを意味したからです。
パレスチナ人達は、ユダヤ人・パレスチナ人が民主的に共同経営する国を提案しました。しかしこれをユダヤ人は受け入れませんでした。選挙による民主主義的な決定が少数派の彼らの振舞を制限する事は間違いなかったからです。

翌1948年5月14日、イギリスによる委任統治期間が終了後、突然テルアビブで初代首相ベン・グリオンによる独立宣言が行われます。その後、イスラエル軍はパレスチナ人の住む町や村を破壊し、虐殺行為を行いました。これが大量のパレスチナ人難民が発生することになったはじまりです。

サイクスピコ協定によって生み出されたクルド人問題に加えて、イスラエル建国によって生み出されたパレスチナ人問題。

その後、欧米は、人間の悪意を利用しはじめます。この土地では、新参者のユダヤ人と、もともと住んでいたはずのパレスチナ人、そして人為的に分割されたクルド人が居ました。列強は、武器を与えることで容易にテロリストを作り出せる土壌を作り上げました。彼らに武器を与えることで、容易に国家転覆を謀ることができます。いつでも、資本によって自分たちに都合の良い政府に置き換える土壌を作ったのです。

民主的とは到底言えない手続きが、国連主導で行われてしまったという暗い歴史です。国連憲章に謳われる民族自決の原理は国連設立直後に、完全に無視されてしまいました。

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