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超ミステリアス!異端の画家ゴヤが遺した『黒い絵』の謎

スペインの画家フランシスコ・デ・ゴヤが、晩年に自宅の壁に描いた一連の絵画『黒い絵』は謎に満ちている。一枚一枚が意味深で、皮肉と風刺が感じられ、みる者に強烈過ぎる印象を残すという…。

更新日: 2015年05月23日

だらくださん

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遅咲きの天才画家

経歴【1746年〜1828年】近代絵画の創始者の一人として知られるスペインの巨匠。強い批判精神と鋭い観察力の人として知られている。

ゴヤはスペイン北東部サラゴサ近郊で生まれた。芸術を愛好する気風の家庭で育ち、若い頃から画家を志し、1770年からローマで修業する。

1775年から十数年間、王立タペストリー工場でタペストリーの下絵描きの仕事に携わった後、宮廷画家となった。

ゴヤは芸術家といっても結構計算高くて肖像画を描きまくって金儲けでも成功したことで有名ですが、一方で真実を描こうとする芸術的欲求も強くて、生活の糧としての活動と芸術的活動をうまく組み合わせていた

処世術にも長けていた人であり、事実幾度も教会に睨まれるような風刺画などを描いていますが、王室や権力者の助力を借りてその危機を脱しています

40代にさしかかり、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たゴヤだったが、1792年、不治の病に侵され聴力を失う。

聴覚を失ったことでゴヤの画風はガラリと変化していきました

1808年から起きたスペイン独立戦争において、極限状態の人間の様々な様子を目の当たりにするゴヤ。

戦争の恐怖は、ゴヤにとって最大の関心事であった

ナポレオンの侵略によりスペインの平和が覆されると、老年期のゴヤは、戦争と混乱に見舞われた民衆の悲惨な現実を見つめます

当時のスペインもひどい状態だったようだ。悪条件の中で、表現を生み出して行ったゴヤの天才性に驚く

そして、【黒い絵】とは…

1815年以降のゴヤは宮廷画家でありながら、実質的には引退して親しい友達のために絵を描いていました。この時期にゴヤは一軒の家を購入し、有名な『黒い絵』のシリーズを描きはじめました。

通称「黒い絵」は最も個人的な絵画である。見せるためやまして金のために描かれたものではない

「黒い絵」は名が付いておらず、ゴヤによる説明も全く残っていませんでした。これらの絵が見つかり、マドリードのプラド美術館にキャンバスを取り付けた時、美術家らはこれら14作品一連と作品一つひとつに名前を付けたのです。各名称は一つひとつの作品を識別する際便利ですが、これらの作品群やその名称はゴヤの意図と異なっているかもしれない

ゴヤは1819年にマドリード郊外に「聾者(ろうしゃ)の家」と通称される別荘を購入し、この家のサロンや食堂の壁に14枚の壁画を描いた。

10ヘクタール農地の中の2階建てで、現存していない。前の住人が耳が不自由であった為に、聾者の家と呼ばれていた。

“家”そのものは、さまざまな人の手にわたり、19世紀末の鉄道建設に際して停車場用地とされ、壊されてしまっていまはない。その駅の名をはじめはゴヤ駅と呼んだ

ローマ神話に登場するサトゥルヌスが将来、自分の子に殺されるという予言に恐れを抱き、5人の子を次々に呑み込んでいったという伝承をモチーフにして描かれている。

漆黒の闇を背景に、裸の巨人がわが子をむさぼり喰っている。灰色の髪を振り乱し、身をよじり、前かがみで、両目も、口も鼻の穴も、もうこれ以上はもう無理だと思うほど大きく開けたサトゥルヌス

制作当時はサトゥルヌスの男性器が勃起した状態で描かれていたことが判明している

現在はサトゥルヌスの下腹部は黒色で塗り潰されており、この処理の理由に関しては移植作業の際に性器部分が剥落したとする説や、あまりにもおぞましく猥褻である為に修復家が手を加えたとする説が有力

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このまとめへのコメント1

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だらくださん

どうぞよろじぐおねがいじまず。



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