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本能寺の変に新事実、光秀が信長を殺したホントの動機

織田信長が、天下統一の直前に、明智光秀の謀反によって討ち取られた「本能寺の変」は、ナゾだらけの歴史事件。新たに長宗我部元親の手紙が見つかり、このナゾが解かれるのか?

更新日: 2014年06月24日

ikelongonさん

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信長は、なぜ明智光秀に殺されなければならなかったのか?今回、そのナゾにせまる「手紙」が発見された!

ついにナゾを解く手がかりになる「手紙」が発見された!

手紙を描いた長宗我部元親は、当時、四国の有力な戦国大名だった。

※長宗我部元親のイメージ(画像)

土佐の長宗我部元親が、光秀の家臣に宛てて送った四国攻めに苦悩する書状が発見された

発見された手紙は、明智光秀の側近「石谷家」の古文書の中にあった!

手紙は、織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」の直前にやりとりされたものだった

手紙に書いてあった「新事実」とは

本能寺の変の前、明智光秀が元親と親戚の斎藤利三を通して、元親に四国全体を領有させようと交渉を続けていたんだとか。

※明智光秀のイメージ(画像)

【長宗我部元親の出した手紙】
本能寺の変の前に、土佐(高知)の武将だった長宗我部元親が、親織田信長の命令に従うと書いてあった

元親が「四国の一部」しか領地として認めない信長の命令に従うことを伝えて、信長との武力衝突を回避しようとしていたことが分かる

四国の一部=阿波(徳島)の半分と土佐のみ

【県立博物館】
「手紙で(織田側が四国に攻め入る)直前の様子が明らかになった」

動機は、四国政策でのトラブルか?

そのころ信長は、家来の明智光秀を四国制圧に任命。
※信長の肖像写真(画像)

信長はもともと、長宗我部家と友好関係を結び、四国制圧を許していた

この関係の媒介役を担っていたのが光秀(とその重臣の斎藤利三)だった

その中で光秀は、長宗我部元親と関係を深めていったらしい。

光秀の勢力は元親と関係が深く、命令に従うとした元親を攻めようとする信長を止めるため、本能寺の変につながった可能性があるという

発見された手紙は、5月21日付。この後、信長の命令で四国を攻める兵が大阪で待機し、6月2日に本能寺の変が起きる。

黒幕がいる?とすれば、いったい誰?

当時、信長は、家康を脅威に感じていた?

天下統一目前の信長は、三河武士の団結力とその主君の家康存在が目障りになってきた

信長が光秀の謀反に全く無警戒であったのは、自分自身が家康を討つ罠を仕掛けていたから

信長が、家康暗殺を光秀に指示していたという説がある。

本能寺の変とは、そもそも信長が、家康を本能寺で討ち取る事件のはずだった

本能寺を実際に襲撃した光秀の兵は「家康を討つとばかり思っていた」と証言。

信長が本能寺の変の時、「是非に及ばず」(確認する必要なし)と言ったのは、謀反を起こしたのが明智勢と聞いて、思い当たるところがあったということでは?

命の危険を感じた家康と光秀が、手を組んで信長を殺そうとした?

本能寺の変から、あまりにスムーズに天下を獲れたのは・・・。

本能寺の変の後、毛利氏との講和を取りまとめて、明智光秀を討つため京に向けて全軍を取って返した軍団大移動「中国大返し」

ここで信長弔い合戦の音頭を取ったことをキッカケに、一気に天下統一へ。

しかし、本能寺の変から、「中国大返し」のあと、秀吉と光秀の戦った山崎の合戦まで、わずか11日しかたっていない

一日あたり平均20kmで進み続け、一日70キロ歩いた日もありヘトヘトなはずなのに、光秀軍に勝った。

しかも、京都から200km離れてるのに、なぜ1日で信長が死んだとわかったのか?

光秀が出した毛利への密書が、道を間違えた使者によって秀吉のもとへ届けられたからというが・・・。

最初の天下分け目の戦いだった!?という説がある。

実は、秀吉は、家康が信長に会う日が本能寺の変の起こる日、ということを知っていたのでは?

信長が、その日、本能寺に家康を呼び出して殺そうとしていることを秀吉は知っていた。

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ikelongonさん

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