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愛甲猛とはどういう男なのか 愛甲が語る高校野球、プロ野球の裏側

仰木彬 長嶋茂雄 原辰徳 落合博満 広岡達朗 星野仙一 中居正広、上田晋也、亀梨和也

更新日: 2014年09月27日

akiratetsuoさん

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愛甲猛とは

愛甲 猛(あいこう たけし、1962年8月15日 - )は、神奈川県出身の元プロ野球選手(内野手、外野手、投手)・俳優・実業家・野球評論家。
選手時代はロッテ、中日に在籍。ロッテでは勝負強さを武器に主軸を打ち、中日では代打の切り札として活躍した

引退後は、ぶっちゃけトークとたぐいまれな話術で、一部ファンから絶大な人気を誇っている

貧しかった少年時代

親は共に再婚同士
しかし父親は愛甲が5歳のときに事業に失敗し、借金を残して女と失踪
障害を持つ兄と母子家庭で貧しい少年時代を過ごす

野球との出会い、そして不良の道へ

小学校のころかに野球を始め、体が成長し始めた中学時代は身体能力の高さからバレーボールやバスケット、水泳なども誘われるほど
そんな中学時代から不良の道にも精を出し始め、タバコ、女、シンナー、万引き、暴走族など、悪いと言われる事は全てやったという

シンナー

「そうだね。アンパンはボンドって呼ばれるやつの威力がすごくて。ビニール袋に入れて、ひと吸いして目の前を見ると、膨らませたビニールの上に小人が立っている。で、その小人が『もうすぐだよ』って教えてくれると、幻覚が始まる」

高校時代のあだ名は「あんぱん」であったという

初体験

『女を知ったのは中学3年。いちばんワルだったのが初体験の女で・・・』当時は不良の女性に人気があって。ただ、不良の人たちは告白の方法がすごい。腕にカッターで愛甲さんの名前を彫って、『あたしと付き合いな!』って正面から言われた(笑)

横浜高校時代

横浜高校へは授業料免除の特待生で、寮生活の野球漬けのはずが、タバコ、女、シンナーは高校2年までやっていたが、3年の時に本気で甲子園での優勝を目指してタバコ以外は断ったという

横浜高校時代は1年生でエースで、1978年夏の甲子園に出場。そして、1980年の夏の甲子園で、荒木大輔を擁する早稲田実業高校を破り、優勝投手となった

国体の前に、愛甲が牧田(チームメイト)を殴って顎の骨を折った話は新聞で騒がれ問題となった。真相はやはり女がらみであった

名門・横浜高校野球部内でのイジメ、シゴキ

「他の学校は知らないけど、自分の時代は、1年生はゴミ、2年生は人間、3年生は神様だから。周りには3年生から『コーラ買って来い』と言われ、平仮名で『せんえん』って書かれた紙キレを握りしめて買いに行ったヤツもいた。砂利の上に正座させられての説教なんて日常茶飯事。自分が入学する前の出来事だと、コーラの王冠を後輩の頭の上に乗せて、王冠目がけてシューズでパッカーンと殴る先輩も」

当時の野球部のモットーは『根性とハッタリでは負けるな』。遠征試合の時は全員が“ドカン”っていう太いズボンをはいて行く。試合前の挨拶で両校が整列する時は『相手よりあとに集合して、相手が引き揚げるまで帰ってくるな。相手からは絶対に目を離すな』と言われていた

余りの練習の辛さにバーベルを自らの足に落とし骨折させ練習を休む者
2階から飛び降りて両足を折り、練習を休もうとする人など、故意に怪我をする人間が多発した

甲子園で優勝したあとの話

「優勝パレードの翌日にスナックで酒を飲んでたら、知り合いの社長が来て、一緒に堀之内のソープに行った。あの時は待合室にお姉さんたちが集まって、サイン会になった」

甲子園で優勝した後は周りの扱いが変わって、授業中に別室に呼び出されて色紙にサインを書かされた。お茶やお菓子を出されて、なんならタバコも吸うかと言われた

ドラフト前にはプリンスホテルや西武の関係者と接触を持っていた
小遣いとして毎回10万円を貰い、ソープなどの接待も受けたという
社会人チームであるプリンスホテルからは異例の4000万という支度金を提示されたが大洋を希望していて、大洋でなければプリンスホテルと考えていた
ロッテに1位指名されたが大洋を希望した事もあり嫌な表情を浮かべ、ロッテ関係者が挨拶に来た日には女との先約があったのですっぽかしたそうです

プロ入り後

プロでは投手としてスタートするが、1勝もできず伸び悩む。4年目の1984年からは野手に転向。チームの先輩落合博満に弟子入りして打撃技術向上に取り組む。落合に受けた自主トレはスパルタそのもので、余りの厳しさに愛甲がつい「これでも甲子園優勝投手ですよ」とこぼすと、落合は「そんなに甲子園がいいなら甲子園に帰ればいい」と一喝。愛甲はこれでプライドを捨てる事ができたという。落合はそうした厳しい指導の反面、愛甲に対して面倒見がよく、打者転向に一番大きな役割を果たしてくれたと愛甲は自著『球界の野良犬』で語っている

野手転向3年目の1986年から一塁手としてレギュラーに定着。強肩を買われ外野手を務める事もあった。1988年にはチームの主軸として初の二桁本塁打を記録。10.19のダブルヘッダー第1試合では初回に小野和義から先制2ランを放った。1989年には打率3割を記録し、ゴールデングラブ賞も獲得。 1988年6月25日から1992年7月11日にかけて535試合連続フルイニング出場を続け、パ・リーグ記録(セ・リーグも含めると歴代5位)となっている

愛甲猛が語る試合中のベンチ裏で分かる人間関係

試合中のベンチって人間関係がうごめいてて面白いんですよ。監督に近い所にいる選手が引退した後の幹部候補生で、ジャイアンツの場合は高橋(由伸)と阿部(慎之助)ですよね。あれは将来の監督候補ですよ。あと監督にゴマをすらないと生きていけない中堅選手たちもベンチの監督寄りの方にいて、引退後に自分の力で勝負が出来る清原(和博)とか、その子分の元木(大介)なんかは監督と一番離れた所にいましたから。

日本球界の「ドーピングパイオニア」を目指した 筋肉増強剤

「最大値(胸囲は)125cmあった。現役最後は95キロまでいって、体脂肪が11%とか。中毒になるんですよ。
やってみたらやっぱり若いヤツと比べても、体力的には全然負けない。
パワーは尋常じゃなかった。物を持っても物が軽くなる」などと振り返った。

だが、愛甲氏は、あるとき長時間のドライブをした後、両足が異常にむくんでしまったという。
このときの状況について、「これ、さすがにやばいなと思って病院行ったら、すぐ入院って言われて。
入院してもむくみが取れないんですよ。足って、重力に逆らって筋肉の収縮(がポンプの役目を果たし)で血が上に上がる。
それが(肥大した筋肉により)できなくなって、(血が)下がりっぱなし」と話し、
「いまだに不整脈です」などと後遺症があることも明かした

ポーカー賭博 マリファナ シャブ

「花札をやってたら、仲間の三人が注射を打ち、すっかり花札にならなくなった。
 翌日、球場で会ったとき、「明日もくるから!」と言って別れたがその後行方不明・・とおもったら、二年間刑務所に入っていた」

「暴力団の構成員となった友達が金に困ってたので5万円貸してやったらお礼にせんべいらしき缶をくれた。その中の封筒には緑の葉っぱが入っていた。マリファナだった。
 返そうと思ったが携帯電話がない時代なので居場所がわからない。目にはいると試してみたくなるのが人情というものだ」

仰木彬監督の意外な一言

あの試合で流れを変えたのは、仰木彬監督の一言だったと思っている。ロッテの佐藤健一が自打球を膝に当てたとき、骨折するほどのケガだったにも関わらず、ケガの心配もするでもなく「痛かったら代われば……」と無神経な一言。それを聞いた有藤監督が激怒。ナインも「絶対に勝たせるな」と団結した

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