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沖縄戦(太平洋戦争末期)の写真。ひめゆり学徒隊の悲劇

沖縄戦は、太平洋戦争の末期に日本に米軍が上陸して行われた激しい戦闘でした。沖縄の象徴であった首里城は、跡形も無く破壊され、沖縄の県民を含む数十万人が犠牲となりました。

更新日: 2016年05月11日

misukiruさん

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1945年3月に開始された沖縄戦

今から60年も前に、無数の琉球の民と多くの強制徴収された兵士の命が失われました。

沖縄戦は太平洋戦争末期の1945年3月26日から9月23日の6ヶ月間に渡って沖縄県で繰り広げられた日本軍と米軍の間で勃発した戦争のことです。

沖縄戦の戦闘の激しさは「ありったけの地獄を一つにまとめた戦争」あるいは「鉄の暴風」と表現されます。

沖縄の平和記念公園の慰霊碑です。沖縄戦で亡くなった数十万人の方の名前が刻まれています。

沖縄では、終戦した時には、食べるものがほとんどない状況で、ほとんどの子供が栄養失調にかかっている状態でした。1945年8月4日撮影

1945年3月26日早朝、アメリカ軍は沖縄進攻作戦「アイスバーグ上陸作戦」計画に基づき、沖縄島上陸前に慶良間諸島の上陸作戦を展開しました。

1945年3月26日の8時25分に慶留間(げるま)島に、9時21分に外地島にアメリカ軍が上陸。翌日3月26日の午前9時に座間味島に、翌日3月27日午前9時11分に渡嘉敷島に上陸しています。

沖縄本島に上陸

米軍は、沖縄上陸で大量の艦艇を投入しました。ここに見るだけで膨大な数の艦艇が停泊している事が分かります。

沖縄本島への上陸は。4月1日の朝の8時半からでした。読谷、嘉手納、北谷にわたる海岸が無数の艦船と上陸艇で埋め尽くされました。

3月に硫黄島の旧日本軍の要塞陣地が陥落してから、すぐに沖縄に米軍が上陸を開始しました。

沖縄戦の戦闘経過

米軍は、案はしに近い海岸に上陸して、そこから飛行場を奪取、その後に首里方面に向かって進路を取ります。

米軍はその日のうちに読谷、北谷にある日本軍が保有していた読谷飛行、北谷飛行場の占領に成功する。 そう、日本軍は上陸地点どころか航空機の基地となる飛行場までを放棄していたのだ。

沖縄戦で米軍は、3月末に上陸を開始して、4月13日には北部を占領。6月までに南部のほぼ全ての地域を制圧しました。

私達は、訓練に使っていた竹槍は、もとの壕に置いたままだったので、斬込みといっても武器は無いので、手榴弾を二個持って、晩九時頃に各隊は出発した。

多くの住民が避難していた所に戦争を続けるために軍が逃げてき、壕などを強制的に徴用した。住民は砲弾のなかに追い出される事となった。

米兵は降伏を勧めながら、すぐに撃てるように拳銃が全て穴の方向を向いている事が分かります。こんな状況で降伏するのが無理と言うものかもしれません。

2人の少年兵(中学生ぐらい)と、ほとんど何もなくなった沖縄の民たちが米兵に保護されたあとで撮影された写真でしょうか。家も財産も失って、不安げにする様子が伝わってきます。

ひめゆり部隊の悲劇

当時16歳であった女学生240名のうちで半分以上の136名が殺害・もしくは自決によって命を失いました。

「ひめゆり部隊」とは1945年3月23日に沖縄で動員された「看護補助要員」の通称であり、正確には「沖縄師範学校女子部」と「沖縄県立第一高等女学校」の生徒222名、教師18名から構成

。第三外科壕は19日朝、黄燐手榴弾などの攻撃を受け、壕にいた96名(うち教師5名・生徒46名)のうち、87名が死亡した。

沖縄戦末期に沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つ慰霊碑です。戦後の1946年4月7日に除幕されました。

手前の小さな塔が『ひめゆりの塔』です。奥に見えているのは慰霊碑(納骨堂)、塔と慰霊碑の間に口を空けているのが第三外科壕です。

狭い入り口で、中が真っ暗の中に多数の女学生が入っていたものと思われます。

ひめゆり平和祈念資料館では1989年の開館以来、ひめゆり学徒隊の生存者が団体の来館者に講話を続けてきたが、証言員の減少や高齢化から(2015年)3月いっぱいでの終了となった。

日本人の集団自決

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misukiruさん

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