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江戸時代のめっちゃいい話。120人の命を救った牢屋奉行の英断と義理固き罪人たち

1657年、数万人の死者を出した江戸時代最大の大火。小伝馬町の牢屋に炎が迫り来るとき、牢屋敷の長官・石出帯刀は「後日必ず戻ってくるように」と120人あまりの罪人たちを独断で解放した──。

更新日: 2015年11月21日

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牢屋敷長官、石出帯刀(いしでたてわき)とは

現在の東京・小伝馬町にかつてあった伝馬町牢屋敷。
面積が2600坪を超える幕府最大規模の牢屋だった。

石出帯刀(いしで たてわき)は、江戸幕府伝馬町牢屋敷の長官である囚獄(牢屋奉行)の世襲名。

江戸幕府伝馬町牢屋敷の牢屋奉行が代々名乗った名が「石出帯刀」。

下総(しもうさ)香取郡の出の石出氏が代々家職とし帯刀を名乗った。牢屋奉行と俗によばれ町奉行の支配下で300石を受けた。

現在の千葉市若葉区中野町千葉中の出身の石出氏が代々務めていました。

初代の石出帯刀は当初大御番を務めていたが、徳川家康の江戸入府の際に罪人を預けられ、以来その職を務めるようになった。

その職務は牢屋敷一切の監督取締であり、死刑、敲の執行、赦免や宥免の申し渡りに立ち会う事でした。

町奉行の配下に属し、収監された罪人たちの監督取締を行っていました。

歴代の石出帯刀のうちで最も高名な人物が、石出吉深(よしふか、号を常軒。元和元年〈1615年〉 - 元禄2年〈1689年〉)である。

このまとめではもっとも著名な石出帯刀、石出吉深がとった驚きの行動について紹介します。

石出帯刀の英断と義理固き罪人たち

江戸時代最大の大火。死者は3万から10万人といわれ、江戸城天守も消失した。

江戸時代、明暦(1657年)の大火で起きた『切り放ち』の逸話

明暦3年1月18日(1657年3月2日)から1月20日(3月4日)にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災「明暦の大火」(振袖火事)での出来事。

大火の際、小伝馬町の牢屋奉行である石出帯刀吉深は、焼死が免れない立場にある罪人達を哀れみ、大火から逃げおおせた暁には必ず戻ってくるように申し伝えた上で、罪人達を一時的に解き放つ「切り放ち」を独断で実行した。

迫り来る火災を前に、石出帯刀は後日お咎めがあった際には自ら腹を切る覚悟で、その権限がないにもかかわらず罪人たちを解放したのです。

「罪人は死んで当たり前」と閉じ込められたままにされていたが、石出帯刀(←世襲名。本名、石出吉深)が、牢人たちを信じ、文字通り自分の首(命)をかけて「このまま焼け死にさせるのは不憫だ。火事が収まったら戻ってくるように」と、牢人たちを解き放ち、彼らは火の海と化した江戸中に散っていった。

多くの関係者が罪人は見殺しにしても構わないと考えていた中、石出帯刀は罪人といえど人間だと考え、浅草の善慶寺に3日後に集まるようにといって囚人を解放しました。

罪人達は涙を流して吉深に感謝し、結果的には約束通り全員が戻ってきた。

そのとき解放された囚人たちは120人〜130人と言われています。

そして火災が収まったあと、彼ら全員が約束通り戻ってきました。

『火事がおさまったら必ずここに帰ってこい!帰って来なければ俺は切腹する!』って120人を信用したんだよ。犯罪者だよ?

結果からいうと全員帰ってきた。
120人全員。

すげーよね?

この一件は現行の法律にも受け継がれている

吉深は罪人達を大変に義理深い者達であると評価し、老中に死罪も含めた罪一等を減ずるように上申して、実際に減刑が行われた。

このとき解放され、そして戻って来た罪人たちは義理固さが評価され、罪を一段階軽くする処置が取られました。

以後江戸期を通じて「切り放ち後に戻ってきた者には罪一等減刑、戻らぬ者は死罪(後に「減刑無し」に緩和された)」とする制度として慣例化されたのみならず、明治期に制定された旧監獄法を経て、現行の刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律(刑事収容施設法)にまで引き継がれている。

この一件を通じ、緊急時の「切り放ち」が制度化されました。

現在の「刑事収容施設法」抜粋
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(災害時の避難及び解放)
第二百十五条  留置業務管理者は、地震、火災その他の災害に際し、留置施設内において避難の方法がないときは、被留置者を適当な場所に護送しなければならない。
2  前項の場合において、被留置者を護送することができないときは、留置業務管理者は、その者を留置施設から解放することができる。地震、火災その他の災害に際し、留置施設の外にある被留置者を避難させるため適当な場所に護送することができない場合も、同様とする。
3  前項の規定により解放された者は、避難を必要とする状況がなくなった後速やかに、留置施設又は留置業務管理者が指定した場所に出頭しなければならない。

石出吉深という人物

三河の譜代本多某の子として生まれ、のち江戸小伝馬町の牢屋奉行石出家の2代帯刀義長の養子となる。養父の死後、寛永15年、牢屋奉行を継いだ。

元和元年(1615)~元禄2年(1689)3月2日、享年75。

致仕した後は、歌を楽しみ、連歌を能くし、『春雨抄』を著わす。また晩年には『源氏物語』の註釈を行った。著書には他に『温故知新抄』『机右鈔』『所歴日記』『奉悼家光公辞』などがある。

職を退いた後は国学者として活躍したようです。

常軒は単なる人情家の刑務所 所長でなく、山鹿素行に学び山崎闇斎に教えて垂加神道を生んだ日本思想史上重要人物である。おそらく「犯罪者とはいえ皇国の民を無意味に殺してはいけない」という信念 で切放しを断行したのだ。

吉深は江戸時代初期の代表的文化人の一人であると評価されている。

みんなの声

私が惚れた石出帯刀は、石出吉深(よしふか)のことである。こういう、人間としての懐の深い人物は、残念ながら、現代では絶滅してしまっただろう。

明暦の大火の時に当時の石出帯刀が行った切り放しは現在も刑事施設収容法で定められているからなかなかすごい。

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