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切ない…。母親たちの救世主となった医師と、彼の悲劇の物語

正しいことを言っているのに、それが世の中に受け入れられない。そしてそれが命に関わることだったら──。産褥熱による出産後の母親の死亡率が30%にもなった19世紀のヨーロッパで、その原因を突き止めながらも医学界から無視され続け、失意のうちに亡くなった医師センメルヴェイスの悲劇の物語です。

更新日: 2016年02月07日

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不遇の医師 センメルヴェイス・イグナーツ

Semmelweis Ignác Fülöp
1818年7月1日 - 1865年8月13日
院内感染の連鎖を断ち切る方法を発見、主張しながら、当時の医学界では受け入れられず、苦悩の中で没した。
ゼンメルヴァイス、ゼンメルワイスとも。

ハンガリー人の医師。1818年7月1日 、ハンガリー王国ブダ市タバーン町に生まれ、1865年8月13日、オーストリア帝国ヴィーン市デープリング町にて死去。

医師や関係者が手洗いをすれば死の連鎖(院内感染)が減る、という事実を19世紀半ばに発見した

1800年代、女性の出産は命がけでした。
出産後、産褥熱(さんじょくねつ)という病気にかかる危険性があったからです。

当時はウィルスや細菌といった概念はまるで知られておらず、ゆえに消毒などは全く行われていませんでした。治療器具の使い回しも当たり前で、手術室に入った人の半分以上が命を落としていたそうです。

産褥熱とは、出産後38℃以上の高熱が続く病気で、重い場合は死に至ります。

現在では当然の如くに採用されている消毒法及び院内感染予防の先駆者とされ、「院内感染予防の父」、「母親たちの救い主」と呼ばれている。

手洗いによる消毒の大切さを再認識していただくためにも、不遇の医師センメルヴェイスの実話を紹介したいと思います。

生物の先生に勧められてセンメルヴェイスについて調べてみたけど切なかった。

センメルヴェイスの話初めて聞いたけど、すごいなこれは・・

始まり…母親たちの死とセンメルヴェイスの決意

ほぼ二百年前の西洋では、産褥熱(胎盤剥離の傷跡から感染して起こる熱性疾患の総称)が流行していて、死亡率が時には三割を超えるほどだった。病院に行くことは死を意味した、といわれるような時代だった。

当時のヨーロッパの病院では、出産後に産褥熱で亡くなる人が、多い病院では3割を超えていたようです。

当時オーストリアのウイーン総合病院に勤務していたゼンメルヴァイスは、目の前で死んでいく母親達を見ていて、無力感を感じ、産褥熱の解決に取り組むことを決意しました。

1846年、オーストリアのウィーン総合病院の第一産科に勤務し始めた彼は、産褥熱によって命を落とす多くの母親の姿を見て、この病気の解決を自らの使命とすることを決意します。

1784年、ヨーゼフ2世によって建てられたこの病院に、センメルヴェイスは1846年から勤務し始めた。

彼の所属した第一産科も例外ではなく、就任後一ヶ月の間、208人のうち36人以上も亡くなってしまうという悲惨な状況にありました。

産褥熱の原因は不明で、効果的な治療方法は見つかっていませんでしたが、愛児に心を残して劇症の苦しみの果てに若い命を奪われてゆく母親たちの姿や新生児の泣き声、家族の悲嘆にくれる情景といった不幸を終わらせなければならないと決意したのです。

産褥熱の原因 発見の経緯

センメルヴェイスは自宅分娩や同じ病棟で助産婦が行う分娩と医師が行う分娩では産褥熱の発生率が10倍も違うことに疑問を持ち研究を始めた。

ウィーン総合病院の二つの産科は、死亡率が大きく違っていました。
産褥熱による死亡率の高い第一産科では、検死解剖に当たった医師が直接分娩に当たっていました(当時はそれに疑問を持つ医師はいませんでした)。

ウィーン総合病院の第一産科と第二産科の産褥熱による死亡率の差。
センメルヴェイスはこの差に着目し、ふたつの産科の違いに目を向けた。

第1産科と第2産科の違いを調べてみると、第1産科は、産科医と学生が患者を世話しており、第2産科は、助産婦が世話していた。

第一産科では、産褥熱にかかった患者を解剖した医者や学生が、手もろくに洗わないまま出産の世話もしていたのです。

この原因を明らかにしようと分娩後に死亡した遺体の解剖を行っていたある日、同僚の一人がうっかり自分の指を切創し、そのまま解剖を行った後日、産褥熱と同じ症状で死亡してしまった。

センメルヴェイスは、その医師の発病から死に至るまでの過程や、死体の解剖所見が産褥熱と酷似していたことに気づきます。

この経緯から彼は目に見えず「臭い」でしか確認できない死体の破片が医師の手に付着していることが死因であると結論付けた(当時は病原菌などの概念が無かったため、このような結論に至った)。

後年、バスツールがこの“毒素”が連鎖球菌だということを発見。
センメルヴェイス没後約30年、1889年のことでした。

彼は目に見えないものではあっても臭いがあるはずだという考えから、臭い消しに使われていた塩素を用いて洗浄することを考案し、その結果患者の死亡率が激減したことから自身の考えが正しいことを確信しました。

現在では当たり前の消毒による感染症予防の先駆けです。

自説の証明、そして左遷

ウィーン総合病院の産褥熱が感染症で発生源は解剖室ということを突き止め、医師は産婦を診る前に石灰水で手を洗うべしと提言します。これで産褥熱による死亡者は一気に減りました。

センメルヴェイスは院内でのカルキによる手洗いを徹底。これはみるみるうちに成果をあげました。

医師や関係者の手洗いを徹底したところ、第一産科での産褥熱による死亡率は激減した。

しかし、当時の産科長だったヨハン・クライン(1788-1856)はこれを功績と認めるどころか、逆にゼンメルヴァイスを左遷する始末。

劇的な産褥熱の発生率の低下にもかかわらず、普段からセンメルヴェイスの言動を快く思っていなかった産科長はセンメルヴェイスを左遷してしまいます。お気に入り詳細を見る

塩素水による洗浄を行った病院に彼が在籍していた時には産褥熱による妊婦の死亡率が3%であったが、彼が除籍された後には洗浄導入以前の30%にまで戻ってしまった。このような相関関係に気づいたセンメルヴェイスも自身が過去に多くの妊婦らを死に至らしめていた事実に気づき罪の意識に苛まれた。

センメルヴェイスが除籍されたことで、ウィーン総合病院の産褥熱による死亡率は元に戻ってしまいます。

啓蒙活動、そして苦難の道

そこからセンメルヴェイスの苦難の道が始まります。彼の考えが正しいとするならば患者の多くは本来の病気ではなく、医師の治療が原因で亡くなったということになってしまいます。

センメルヴェイスは、医師たちにカルキの溶液で手をよく洗うよう勧め始めますが、そこに待ち受けていたのは無関心と軽蔑でした。

塩素水による消毒が産褥熱を激減させる事を啓蒙しようと数々の病院をまわるが、センメルヴェイスの指示は半ば強要や脅しに近いものであったため、同業者も門前払いし、医学会もセンメルヴェイスを危険人物扱いにしていた。

自説の正しさを証明したセンメルヴェイスは、啓蒙活動に努めますが、その狂気とも呼べるほどの熱意のため逆に危険人物扱いをされてしまいます。

もし彼の説が正しいとなれば、産褥熱の原因は、医師の無知にあったことが明らかになってしまいます。「ゼンメルヴァイスは、第一病棟の患者を不潔だといって差別して、医学生に手を洗えと命じているのだ」……などという理不尽な批判が飛び交いました。

医師たちの手は不潔で、その手が病気を引き起こすというセンメルヴェイスの理論は、到底容易に受け容れられるものではなかったのです。

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