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無能じゃない!!実はかなり有能だった戦国武将の息子たち

戦国時代の英雄の息子として生まれ、過小評価を受けている戦国武将の息子たち。実はかなり優秀な武将だったことを知っていますか?

更新日: 2016年04月28日

DRBRAINさん

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①実は、父よりも最大勢力を作り上げた!!悲劇の武将 武田勝頼

(1546~1582)
「甲斐の虎」と呼ばれる武田信玄の息子として生まれた武田勝頼。信玄の嫡男であった義信が、廃嫡されたことにより名門武田家を受け継いだ。

勝頼は、一般に武田家を滅ぼしてしまった当主として捉えられる。

戦国最強と謳われている父と対称的な評価を受けています

武田勝頼は武田信玄の残した領土を10年足らずの間に失い最後を迎えています。

1575年の長篠の戦いで織田・徳川連合軍の前に敗北し、勢力を失い滅亡の道をたどります・・・

武田家のターニングポイントとなった合戦。
この合戦を機に衰退の道を辿ります

実際はどうだったのか?

勇猛果敢な武将だった勝頼

『甲陽軍鑑』から、勝頼の人物評を強すぎたる大将として紹介しています。

徳川家康が死を覚悟したといわれる、三方ヶ原の戦いの戦いでは勝頼隊の猛攻により徳川軍を打ち崩しました。

父が落とせなかった城を攻略し落城させる

高天神城は、静岡県掛川市にある山城で、徳川家康と武田勝頼の間の激しい争奪戦がくりひろげられた

信玄でも陥とせなかった高天神城を落城

父が攻略できなかった城を攻め落とします。

難攻不落として知られる山城で、武田と徳川により幾多の
激戦が繰り広げられた場所です。

領土は最大値になり、甲斐、信濃、駿河、上野、三河、美濃の一部を持つ信長に次いで二番目の大きな戦国大名まで成長

信玄の亡きあとに、なんと最大勢力を築きました。
その後、一門衆や家来の反発、織田、徳川、北条の巨大勢力に挟まれていたこともあり滅亡の道をだどります。
しかし、暗愚の将でなかったことは事実です。

②ボンクラではない!!あの信長が認めた優秀な後継者 織田信忠

(1555~1582)
織田信長の長男として生まれ、信長の生前に家督を譲られた信忠。正統な後継者として信長を軍事面・政治面で支えた。

かつては徳川史観から来た松平信康との比較で暗愚な凡将との評価が定評だった

しかし、信長が認めた優秀な後継者だった

天正3年には長篠合戦、岩付城攻略などで活躍し、美濃を任されて岐阜城主となり、繊田家を継いだ

このときの地位は明智光秀や羽柴秀吉と同格かそれ以上でした

美濃を攻め落とした信長が築城をしたこの城は、「天下布武」を唱え、その第一歩を踏み出したのが岐阜城です。

頼りになりすぎる2代目

産まれたときから帝王学を教え込まれ、偉大な父親の陰に隠れながら、大過なく成長した2代目

海千山千の松永久秀を倒し、武田家をたった2ヶ月で滅ぼす

戦国最強と言われた武田家、乱世の梟雄を20代そこそこの若者が打ち破ったのです。

父と同じく本能寺の変で死亡

本能寺近くの妙覚寺に滞在していて、父の救援に向かいますが、途中でその死を知ります。それから、彼は少ない手勢と共に明智軍と戦いますが、力及ばず、二条御所で自害

2代目として着実にその地位を固めていた信忠。もし生き延びていれば歴史は大きく変わったでしょう。

信長の家来である明智光秀の謀反により、信長の野望は露と消えてしまいました。同時に信忠の天下人の夢も断たれてしまいました。

③ひ弱な御曹司なんかじゃない!家康も恐れたプリンス 豊臣秀頼

(1593-1615)
天下人である豊臣秀吉と側室の淀君の子として生まれた。
豊臣秀吉の死後、台頭した徳川家康と対決する。

秀吉の晩年に生まれた秀頼は、秀吉に溺愛されて過保護の極みに育てられたということから、軟弱でひ弱な人物を考えてしまう

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DRBRAINさん

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