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画像で見る岩手県田老町の悲劇と防潮堤の破損【東日本大震災】

田老町は、防災の町として全国的に有名でした。東日本大震災においては、防災の町の田老町に設置された防潮堤も津波に飲み込まれて多大な被害を出しました。こんなに悲しい悲劇をまた繰り返さない為に保存します。一緒に防災について考えていきましょう。

更新日: 2015年03月12日

nobuyuki5さん

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田老町の概要

田老町(たろうちょう)は、岩手県下閉伊郡に置かれていた町である。旧東閉伊郡。

リアス式海岸の湾の奥に位置し、幾度も津波の被害を受けているため、総延長2.5kmにも及ぶ高さ10mの防潮堤を建設するなど、津波に対して強い街づくりを進めていたが、2011年東北地方太平洋沖地震ではその防潮堤を越える津波が発生し、多くの被害が出た。

歴史に悲しい経験があった。

1611年、1896年など、何度も津波被害にあった地域

田老は「津波太郎(田老)」の異名を付けられるほど古くから津波被害が多く、江戸時代初期の1611年に起きた慶長三陸地震津波で村がほとんど全滅したとの記録がある。1896年(明治29年)の明治三陸津波では、県の記録によると田老村(当時)の345戸が一軒残らず流され、人口2248人中83%に当たる1867人が死亡したとある。生存者は出漁中の漁民や山仕事をしていた者がほとんどであった。

1897年(明治29年)5月15日の明治三陸津波によって、田老町は、町のほとんどの家屋を失いました。

津波の前は、民家が密集して立ち並ぶ漁村でした。

1933年には、津波で村のほぼ全戸が流出する大惨事が起こる

1933年(昭和8年)の昭和三陸津波による田老村の被害は、559戸中500戸が流失し、死亡・行方不明者数は人口2773人中911人(32%)、一家全滅66戸と、またしても三陸沿岸の村々の中で死者数、死亡率ともに最悪であった。

三陸沖地震の後は、田老町には本当に何も無くなっていました。

田老町に世界一の堤防を作った。

日本にある”万里の長城”とまで言われて、国内外から絶賛されていた。

長さは2600メートル、高さ10メートルだった。建設には45年を要して完成させた。町自慢の防波堤だった。

”防災の町”と言われていた。

非常に分厚いコンクリートで作られており、簡単に壊れるとは思えない。

これを津波が乗り越えるなんて、とても想像できません。

住民は、建設を終えた1966年から安心して家を建て続けてきた。

国内外からの見学者、観光客なども押し寄せてきていた。

田老町の防潮堤は、車から見上げるほどの高さにあった。

防潮堤以外の備えも万全だった。

素早く高台に逃げれば助かるはずが・・・津波到達が早かった。

防潮堤だけでなくて、避難経路の整備もされていました。

津波に何度ものまれたという教訓を胸に「防災の町」を宣言して、安全な町作りを進めていた。

東日本大震災の津波で流されてしまいました・・・。

全ての住民がこの高台に上がるには、やはり時間がかかってしまいます。

水門は、津波の河川への進入を防ぐ目的で作られました。

2011年3月11日、東日本大震災後の田老町

当初7メートルだった防潮堤が10メートルにかさ上げされたが、結果的に強度は失われた。

これだけ高い堤防を乗り越えて津波が町に侵入しました。堤防の右側が海岸線、左側が家屋の密集地帯でした。

東日本大震災では、この堤防を乗り越え、一部の防潮堤を壊しながら街を飲みました。

防潮堤の左右がどちらも津波に飲み込まれて何もなくなってしまいました。

田老町から建物がほとんど消え去ってしまいました。

本当に何も無くなっています・・・・。

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このまとめへのコメント3

  • nobuyuki5さん|2013.07.26

    ありがとうございます、解説の部分を少々修正しました。

  • castro.kondoさん|2013.04.22

    世界一の堤防 とある写真は 高台への避難路の写真です

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nobuyuki5さん

少しずつコンテンツの修正・加筆しています。