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実はアメリカで成功していたピンクレディー

ピンク・レディー(Pink Lady)は、1970年代後半に活躍したデュオのアイドル。ミー(現:未唯mie、本名:根本美鶴代、1958年3月9日 - 、A型、静岡県静岡市葵区出身)とケイ(現:増田恵子、本名:桑木啓子(旧姓:増田)、1957年9月2日 - 、O型、静岡県静岡市葵区出身)の2人組。

更新日: 2016年08月11日

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ひでさん

実はアメリカで成功していたピンクレディー

ピンク・レディー(Pink Lady)は、1970年代後半に活躍したデュオのアイドル。ミー(現:未唯mie、本名:根本美鶴代、1958年3月9日 - 、A型、静岡県静岡市葵区出身)とケイ(現:増田恵子、本名:桑木啓子(旧姓:増田)、1957年9月2日 - 、O型、静岡県静岡市葵区出身)の2人組。多くの楽曲を阿久悠(作詞)・都倉俊一(作曲)のコンビが手がけた。

シングル

# ペッパー警部(1976/8/25)

作詞の阿久悠の書籍『夢を食った男たち―「スター誕生」と黄金の70年代』によると、阿久悠がこの曲名をつけた際の由来についてはドクターペッパーからの引用か、またはサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドからか、『ピンク・パンサー』の登場人物クルーゾー警部からか、落語のくしゃみ講釈の落ちに登場する胡椒(故障)からペッパーを連想したのか、あるいは曽根史朗の往年のヒット曲「若いお巡りさん」(公園のベンチにいるカップルに「早く帰りなさい」と諭す巡査が主人公の歌。「ペッパー警部」と同じビクターより発売)からの連想なのかもしれないが、どれも(阿久悠自身による)後付けの解釈であり、本当のところは分からないとしている。なお、映画『007 死ぬのは奴らだ』と『007 黄金銃を持つ男』に出てくるペッパー保安官(後に警部)については同書では言及されていない。ダンスで大胆に股を開く振り付けは当初は下品とマスコミ関係者に不評であった。B面の「乾杯お嬢さん」も人気で、B面はキャンディーズを意識した楽曲でもあった。前述書『夢を食った男たち-』によると、阿久悠は最初からA面を「ペッパー警部」、B面を「乾杯お嬢さん」にするつもりで作詞したが、当初ビクターは「乾杯お嬢さん」をA面で売り出そうとしたという。

# S・O・S(1976/11/25)

イントロにSOSのモールス信号が入っており、電波法の遭難信号に関する条項との兼ね合いを懸念したラジオ局では一時期放送を自粛したところもあった。また、テレビ出演時は発売直後のみモールス信号からはじまるイントロを使用していたが、ただちにそれを抜いた演奏に切り替えられた(なお、モールス符号による通信は、1999年に廃止されている)。初のオリコン1位。

# カルメン'77(1977/3/10)

この曲あたりから激しい振り付けが増えてゆき、さらなるインパクトがつけられた。

# 渚のシンドバッド(1977/6/10)

初のオリコン上におけるミリオンヒット。オリコンチャートにおいて計8週に渡り1位を獲得。

# ウォンテッド (指名手配)(1977/9/5)

簡単な振り付けが子供たちの間に広まり、振り付けの真似がはやるきっかけとなる。イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)が結成初期のライヴで演奏したこともある。オリコンチャートでは「渚のシンドバッド」から連続して1位を獲得し続け、この曲だけで12週連続1位を獲得。

# UFO(1977/12/5)

オリコン枚数155万枚、出荷枚数195万枚。ピンク・レディー最大のヒット曲(オリコン枚数、出荷枚数共に)。「ウォンテッド(指名手配)」から中島みゆきの「わかれうた」(1週のみ)を挟んでオリコンチャートでは10週連続1位を獲得。

# サウスポー(1978/3/25)

当時まだ珍しかった「オリコン初登場1位」を達成。歌詞中には同時代のスターであった王貞治をイメージした打者が登場する(→参照)。また、高校野球の応援歌では、現在も山本リンダの「狙いうち」等と共に定番の曲である。
同曲にはお蔵入りになったバージョンが存在する。こちらは歌詞も曲調も異なり、王貞治をイメージした打者も登場しない。こちらはレコーディングまでされたものの日の目を見ることはなかった。なお、没バージョンの「サウスポー」は、1998年1月12日に日本テレビ系列で放送された『スーパーテレビ情報最前線 特別版 今夜公開! 山口百恵・ピンク・レディー伝説』でごく一部が流れた後、2008年になって阿久悠の作詞作品を集めたCD-BOX『続・人間万葉歌』に収録され、ようやく商品化された(「サウスポー<未発表バージョン>」として収録)。
神州一味噌のCMではこの曲のパロディが歌われた。
『魔女っ子チックル』 第14話「敵はガリ勉スーパーマン」では挿入歌としてこの曲が使用されていた。

# モンスター(1978/6/25)

出だしから「ワハハハ…」という不気味な悪魔の声に、二人が「キャー!」と叫ぶイントロが話題に。

# 透明人間(1978/9/5)

三角ブラとホットパンツを基調としたシースルーの衣装が話題に。B面は『飛べ!孫悟空』の主題歌「スーパーモンキー孫悟空」。

# カメレオン・アーミー(1978/12/5)

オリコンにおいて、初登場88位→翌週1位という珍記録を達成。正式な発売日以前にフライング発売された分がオリコンに集計されたため。
『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』 第74話「恐怖のカメレオン人間」では挿入歌としてこの曲が使用されていた。
松田優作主演のアクション映画、『俺達に墓はない』では、島とヒコのアジトであるバー亜邪馬の店内で、島が都築興業襲撃の最初の打ち合わせをヒコとしていた時に、この曲が流れていた。

# ジパング(1979/3/9)

デビュー曲以来続いた出荷枚数の連続100万枚突破記録、「S・O・S」以来続いたオリコン連続1位記録が途切れるが、総シングルレコードの売上合計枚数が1000万枚を突破した。これもオリコン史上初となる快挙であった。
「カメレオン・アーミー」と同じく、『俺達に墓はない』で、島が都築興業の襲撃に失敗し、滝田と手を組み、店に帰ってきて、ミチが店を開いていた時に、この曲が流れていた。

# ピンク・タイフーン (In The Navy)(1979/5/1)

ヴィレッジ・ピープルの「In The Navy」をカヴァー。同じカヴァー曲の渋谷哲平「ヤング・セーラーマン(In The Navy)」と競作となる。

# 波乗りパイレーツ(1979/7/5)

B面の「USA吹込盤」は、ビーチ・ボーイズがコーラスに参加。

# KISS IN THE DARK(1979/9/5)

全米デビューシングル。ビルボード誌の「HOT 100」で37位にランクインした。総合チャートにおいては坂本九に次ぐ記録。2009年までの時点で40位以内に入った最後の日本人歌手となる(ラジオ番組“American Top 40”の影響もあり、40位以内へのランクインがヒット曲の基準として重視される傾向にある)。

# マンデー・モナリザ・クラブ(1979/9/9)

阿久悠・都倉俊一のコンビが「そろそろ、子どものお客を無視した、ミーとケイ、ふたりのための曲を作ろう」と話し合った上で作りあげた、アダルトな魅力にあふれた楽曲。

# DO YOUR BEST(1979/12/5)

1980年のモスクワオリンピックに出場予定だった日本選手を応援するため、「がんばれ! ニッポン募金 Do your best!」というキャッチフレーズでピンク・レディーが選手強化募金を呼びかけた曲。その後政治的理由により、アメリカに続き日本もモスクワオリンピックをボイコットし、強化募金呼びかけは消滅。CⅩ”夜のヒットスタジオ”では披露されていない。

# 愛・GIRI GIRI(1980/3/5)

発売当時、ピンク・レディーはアメリカで活動中だったため、テレビでほとんど歌われなかった曲。

# 世界英雄史(1980/5/21)

日本帰国後のシングル。当時解散説が流れ、2人と事務所は当初完全否定していたが、それから約3か月後の9月1日に解散宣言を公表する。

# うたかた(1980/9/21)

アメリカで発売したアルバム『ピンク・レディー・イン・USA』収録曲「Strangers When We Kiss」の日本語バージョン。歌詞もサウンドもセクシーな雰囲気で、後期ナンバーの中でも人気が高い。

# リメンバー (フェーム)(1980/12/5)

後に映画『フラッシュダンス』の主題歌を大ヒットさせるアイリーン・キャラが歌った、映画『フェーム』の主題歌を日本語でカバーしたもの。

# Last Pretender(1981/1/21)

発表当時からテレビで歌われたことが一度も無く、2005年5月27日に行われた『〜グランドフィナーレ〜MEMORIAL CONCERT SPECIAL』の最中に、コンサートの中で歌っていないシングル曲があるが、歌うことを封印したことが告げられ、実際に最後まで歌われることは無かった。よって振り付けなどは不明。
1980年に発売されたラジの「偽りの瞳」(作詞: 高橋幸宏・大村憲司、作曲・編曲・プロデュース: 高橋幸宏)と異歌詞同曲で、作詞は糸井重里、編曲とプロデュースは高橋幸宏自身が手がけたテクノ歌謡。

# OH!(1981/3/5)

ラストシングル。

略歴

* 1971年 - 中学2年生の時、ケイがミーの在学する中学校に転校し、演劇部に入ったことで2人が知り合う。
* 1973年 - 当時、浜松市幸にあった音楽教室「ヤマハ四ツ池センター」のヤマハミュージックスクールに通い始める。
* 1974年 - コンビ結成。元々は「クッキー」(当時人気の有った「キャンディーズ」にあやかった)というフォークユニットだった。
* 1976年 - 日本テレビの番組『スター誕生!』にて合格し、8月25日シングル「ペッパー警部」でデビュー。
* 1977年〜1978年 - 日清焼そばU.F.O.のテレビCMに起用される。テレビの露出がこの時期に極端に増える。
* 1978年 - 「UFO」で第20回日本レコード大賞受賞、「サウスポー」で第9回日本歌謡大賞受賞。
* 1979年 - シングル「KISS IN THE DARK」で全米デビュー。
* 1980年 - 9月1日に7ヵ月後の解散を宣言。
* 1981年 - 解散。
* 1984年 - 1度目の再結成。
* 1989年 - 2度目の再結成。第40回NHK紅白歌合戦に出場
* 1990年 - 第41回NHK紅白歌合戦に出場
* 1996年 - 3度目の再結成(~1997年)。
* 2000年 - 第51回NHK紅白歌合戦に出場
* 2002年 - パチンコ「CRピンクレディー」(大一商会)が当時メーカー過去最大の売り上げを誇ったほど大ヒット。翌2003年の再結成へのきっかけとなる。
* 2003年 - 4度目の再結成。同年から2年間限定で全国ツアーを実施する。Vol.1のツアータイトルは「PINK LADY TYPHOON〜AGAIN〜ピンク・レディーメモリアル・コンサート -JAPAN TOUR 2003-」。
* 2004年 - 音楽番組『ミュージックフェア』にてモーニング娘。と共演、世代を超えた国民的アイドル同士での共演が実現した。ただし未唯は『ハロー!モーニング。』初回にて既にゲスト出演で共演している。
* 2004年 - コンサートツアー「ピンク・レディーメモリアル・コンサートVol.2 モンスターパニック」を行う。
* 2005年 - コンサートツアー「ピンク・レディーメモリアル・コンサートVol.3 LAST TOUR Unforgettable Final Ovation」を行う。(最終公演は『〜グランドフィナーレ〜MEMORIAL CONCERT SPECIAL』)。
* 2007年 - ピンクレディーのパチンコが再び登場、パチンコで使用される曲の再レコーディングを行った。
* 2010年 - 最初の解散宣言から丁度30年経った同年9月1日に、「解散やめ!」宣言で5度目となる再結成。
* 2011年 - 3月31日、赤坂BLITZにてチャリティーイベント「初陣式」を決行。公演の模様は全てUstreamにて配信された。5月21日の市原市市民会館を皮切りに全国ツアーをスタートする。

再結成

解散後はそれぞれ女優やタレントとしてソロ活動。ピンク・レディーとしては、2005年までは期間限定ながら数度、再結成して活動。二人でテレビ出演する際の衣装は、増田がピンク、未唯mieはブルーで登場することが多い。これは、現役の頃から今までも増田がピンクが大好きだということの表れである。

2010年、解散宣言からちょうど30年後の9月1日に「解散やめ!」を宣言、ピンク・レディーとしての活動を再開しソロ活動と並行して継続することを表明。2011年5月から本格的な再始動として全国ツアー、ピンク・レディー Concert Tour 2011 “INNOVATION”を開催

アメリカ進出、そしてデュオの終焉

人気絶頂だった1978年暮れの『第29回NHK紅白歌合戦』への出場を辞退、日本テレビ系の裏番組(チャリティー番組)に出演する。当時の『紅白歌合戦』は文字通りの国民的お化け番組であり、ピンク・レディーが出演した裏番組は惨敗する結果になった上、NHKとの関係にも遺恨が残ったと言われる。

とはいえ、翌1979年夏の「波乗りパイレーツ」に至るまで躍進は続いていた。しかし、アメリカでの活動を主軸に置いた同年秋からは、まるで潮が引くように急速に人気の衰えを見せるようになってゆく。アメリカのショービジネスの世界へ進出して日本のマーケットを省みなかった事が、結果として人気に悪影響を与えてしまった。1980年春以降は松田聖子や河合奈保子といった、新人アイドル歌手の勢いに押されすっかり過去の存在と化し、テレビ番組などでは数年前のようなスーパーアイドル的な扱いは既に程遠いものとなっていた。

なおアメリカ進出の経緯については一般に知られていないが、多くのファンを得て、短期間に準レギュラー出演の番組を獲得するなど、当時の外国人デュオとしては非常に成功したケースであった。しかしながら、よりセックスアピールを前面に出したスタイルであったため、国内でのイメージを損なう恐れがあるとの判断から日本ではほとんど報道されなかった。アメリカのマーケットにおける長期的な見通しの欠如と、国内マーケット重視の営業判断から、活動途中でアメリカから撤退を余儀なくされた。また当時、主に私生活上(特に恋愛関係)の要因からケイが日本への帰国を強く主張していたことを、後にケイ自身が著書で明らかにしており[6]、それもアメリカ撤退の一因となった。

アイドル歌手では一般的なことだが、活動方針やイメージ戦略などはピンク・レディー本人(ミーとケイ)が立案しているのではなく、所属事務所など周囲の関係者が行っていた。多忙がたたり、当時の仕事の現場はダブルブッキングなどは日常茶飯事な状態であった。ミーとケイは、デビュー当時から寝る間もないほどの仕事を課せられていたため、自分たちが実際にどれくらい人気なのか全く分からなかったと後述している[7]。爆発的な人気が出た後には、前述の紅白辞退やアメリカ進出で負の遺産を背負い込まされることになり、自らの意志とは別の次元で悲劇的な運命に翻弄されることになった。

そして1980年9月1日、ピンクレディーは二人揃って「解散宣言」を発表。それから7か月後の1981年3月31日、みぞれ交じりの雨が降り続く中、後楽園球場でピンク・レディーの解散コンサートを開催する。活動期間は4年7ヶ月。なお当時の所属事務所は解散直後に倒産し、社長であった貫泰夫も芸能界を離れた。

出会いとデビュー秘話

常葉高校(現・常葉学園高校)卒業後の1976年8月25日に、シングル「ペッパー警部」で歌手デビュー。中学、高校時代に同級生だった二人は、1973年にヤマハ音楽が主催するオーディションにそれぞれ合格、特待生としてヤマハボーカルスクールに通う事になる。講師の勧めで“クッキー”というデュオを結成し歌手を目指していた。クッキー名義で1974年のポプコン東海地区大会決勝に進出し「恋のレッスン」を歌っている。デビューのきっかけとなったテレビ番組『スター誕生!』出演時は、二人おそろいのオーバーオールを着、素朴な雰囲気で登場。歌も当時ほとんど無名に近かった、フォークグループの曲(ピーマンの「部屋を出て下さい」。メンバーのうち、叶正子は後にコーラスグループ「サーカス」のメンバーとして再デビュー)を唄う事で逆に注目され、合格する。後に増田恵子(ケイ)は素朴な田舎っぽいイメージはオーディション番組に受かるための手段で、当初より歌って踊れる歌手を目指していたと語っている。当時のテレビ局関係者には素朴な田舎娘だったとの印象が強く、フォーク歌手指向と語られ、グループ名が「白い風船」もしくは「茶ばたけ」になりかけたこともあった。 スター誕生で、会社の方針に逆らいプロデビューへの道を拓いたのは、ビクター音楽産業の飯田久彦であった。 歌手デビューに際し、全く異なるキャラクターにプロデュースされる。手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装にリズムやビートを強調した曲調により、郊外の田園風景が似合う素朴な二人組がアメリカのショー歌手も顔負けの派手な歌謡デュオになった。大胆に太ももを開いたりする激しくセクシーなダンスを行うことから、デビュー当初は成人向け深夜番組の出演が多かった。ピンク・レディーとは都倉俊一の命名であり、カクテルのピンクレディーに由来する。

なお、デビュー曲のB面に予定されていた「ペッパー警部」を強引にA面にし、セクシー路線に変更させたのは、資金繰りに苦しんでいたデビュー前のピンク・レディーの所属事務所から、人を介して融資を頼まれ「T&C」と社名変更させた上でオーナーとなった[1]、総会屋の小川薫である。T&Cの社長[3]と専務は小川の中学(幟町中学)時代からの友人で、原爆の焼け野原で一緒にボールを追った野球部仲間だったが、二人とも証券、生命保険の大手企業出身の堅気で、一攫千金を夢見て脱サラした人物だった[2][3][4][5]。

同様の歌手としては1970年代前半に人気を博した山本リンダの前例もあるが、山本が“大人の女”の色気を売りにし夜のイメージを感じさせたのに対し、ピンク・レディーは夏の浜辺のような明るく健康的なムードなのが対照的だった(山本の曲も阿久悠・都倉俊一コンビ作が多い)。デビュー直後にはキワモノ的な見方もされたが、まずは当時の子供たちが振り付け(すべて土居甫の手によるもの)を熱心に覚えて真似をし始めた。そのため山本リンダに代表されるかつてのセクシー歌手とは対照的に、老若男女に幅広く人気を獲得することに成功。レコードが大ヒットするだけではなく、人気が高まるにつれ衣料品や文房具、食器、果ては自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に彼女らの姿がプリントされたキャラクターグッズが販売され、ピンク・レディーという存在は想像を絶する巨額の経済効果を派生させることになった。なお小川も、付き合いのあった企業へCM起用を売り込んだ。

絶頂期

ピンク・レディーは、1970年代前半の国民的アイドルだった天地真理や1970年代半ば~後半にかけ人気を博した山口百恵らを超え、さらに時代を象徴するスーパーアイドルになったと言える。1978年のブロマイドの年間売上成績でも人気No.1に輝いた。 また「サウスポー」や「透明人間」などのように、男女の恋愛を直接のテーマとしていない曲も、当時の歌謡曲には見られない特徴的なものだった。

3年ほど早くデビュー(1973年9月)していた、アイドルトリオのキャンディーズと比較されることが多かったが、当時のレコード売り上げ枚数はピンク・レディーの方が圧倒的に上回っていた。人気は爆発的に高まり、オリコンで連続9曲1位・10曲連続ミリオンセラー(出荷ベース)は、当時の新記録。 オリコンシングルチャートにおける通算首位獲得数(63週)は、2011年現在でも破られていない。また女性グループアーティストによる通算9曲首位も、2006年11月20日付にモーニング娘。が「歩いてる」で記録更新するまで最高記録であった。

ピンク・レディーの人気は、1977年〜1978年の約2年間が絶頂期だったと言える。デビュー・シングル「ペッパー警部」のスマッシュ・ヒットのあと、「S・O・S」でピンクレディー人気に火がついた。その後「カルメン'77」のヒットに続き、「渚のシンドバッド」で頂点を迎えた。さらに「ウォンテッド (指名手配)」も大ヒットとなり、続く「UFO」でポップ・アイドルとして初めて日本レコード大賞を受賞する。これは日本歌謡界における“革命”であった。そして「サウスポー」「モンスター」の2曲も大ヒット、オリコンでミリオンセラーを記録した。

人気ロックグループ・サザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」は、沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンク・レディーの「渚のシンドバッド」のふたつの曲のもじりである(それ以前に『8時だヨ!全員集合』で志村けんが「勝手にシンドバッド」というギャグを披露している)。両曲とも1977年の大ヒット曲であり、この時期のピンク・レディー人気がいかに巨大な存在だったかを物語っている。「渚のシンドバッド」は歌詞に「セクシー」という言葉が登場するが、これは日本のメジャーな歌謡史上で初めて使用された例だとされている。それでいて歌全体に淫靡なムードが漂わない辺りが、ピンク・レディーという存在の独特な個性だったと言える。

さらに、作詞の阿久の作風を反映して、若者の性の奔放さを題材にした「ペッパー警部」「渚のシンドバッド」、UFOブームを反映した「UFO」、王貞治の本塁打数の世界新記録ブームに乗じた「サウスポー」など、時代の流行が伺える楽曲が多い。また歌の内容に合わせた衣装も特徴的で、「UFO」の宇宙的コスチュームや「サウスポー」のピンクのユニフォームを着ていたり、「透明人間」「カメレオン・アーミー」 に至っては、テレビ番組で二人の姿が消えたり衣装の色が変わったりするなどの演出が施された。

これらの現象は、ピンクレディーの作詞家・阿久悠の影響によるところが大きい。かつて阿久は山本リンダの事務所から山本リンダのプロデュースと作詞を頼まれ、山本リンダを“革命的アイドル”としてブレイクさせた。これと同じことが、ピンクレディーでも行われたのである。ピンクレディーが“UFOブーム”や“王貞治ホームラン世界記録ブーム”を採り入れたことも、阿久の『作詞とは“時代”である』とのポリシーからであった。またこの間、「サウスポー」までは成人男性を中心とする“アダルト人気”がピンクレディーを支えたが、「サウスポー」のあと事務所が営業戦略を“子供向け路線”に転換したことが大きな転機となる。結果的には事務所が、ピンクレディーの“振り付けブーム”に影響されたとも言える。

当時女児の間ではピンク・レディーの振り付けの真似が大流行し、踊れるのが当たり前と言われた。『探偵!ナイトスクープ』2001年2月9日放送分の「30代の女性は皆ピンク・レディーの振り付けを踊れる?」の調査でも、街頭インタビューを行った一般の女性達が次々と完璧に「UFO」「サウスポー」などを踊りこなし、当時の人気振りを偲ばせた。当時フィーバーやアパッチ、キャッツ★アイなど、ピンク・レディー人気にあやかろうと亜流といえる歌謡グループが複数登場したのも人気を物語るエピソードである。

ピンク・レディー、『夜ヒット』出演映像が初DVD化
 昨年9月に再結成した人気デュオのピンク・レディー。歌番組『夜のヒットスタジオ』に出演した彼女たちの映像を集めたDVD『ピンク・レディーin夜のヒットスタジオ~フジテレビ秘蔵映像集~』が、5月27日に発売されることがわかった。ピンク・レディーが歌番組に出演している映像がDVDになるのは今回が初めて。

 1970年代に次々とヒット曲を連発し、奇抜な衣装とダンスで一大旋風を巻き起こした2人。同DVDでは、初々しくデビュー曲「ペッパー警部」を歌う同番組初出演時の映像や、解散コンサート前日の1981年3月30日の番組など、貴重な映像が満載。155.4万枚(4/8現在)を売り上げた「UFO」や「渚のシンドバッド」、「サウスポー」などヒット曲の数々が、懐かしい映像で蘇る。

 さらに、人気番組『スターどっきり(秘)報告』、『スター千一夜』、『FNS歌謡祭』の名場面も収録。260分(予定)の豪華盤となっている。

ピンクレディーが神宮ジャック

【ヤクルト】5・3はピンクレディーデー
ヤクルトは、5月3日の中日戦(午後2時、神宮球場)に、歌手ピンク・レディーを招いて「ピンク・レディーDAY」を開催すると発表した。

 当日は、BGMやビジョン映像などでピンク・レディーの名曲を流すことに加え、プレーボール前に、選手への花束贈呈を行う。さらに、2人がグラウンドに登場し、大ヒット曲「サウスポー」を思わせるような、始球式を担当する。

ピンク・レディー2人で始球式に登場 元キャンディーズ・田中好子さんは「素晴らしい先輩」
人気女性デュオのピンク・レディーが3日、東京・明治神宮球場で東京ヤクルトスワローズVS中日ドラゴンズ戦前にヒット曲「サウスポー」よろしく始球式を行った。2人はヤクルトの先発“サウスポー”石川雅規投手が見守るなか初めて並んで投球し、マウンドを降りた2人は「緊張したぁー!」と声を揃えた。また4月21日に亡くなったキャンディーズの元メンバーで女優の田中好子さんとの共演を振り返り、ミーは「3人のなかでも一番芸暦が長くて、貫禄があって素晴らしい先輩」と悼んだ。 
http://www.oricon.co.jp/news/confidence/87313/

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