常葉高校(現・常葉学園高校)卒業後の1976年8月25日に、シングル「ペッパー警部」で歌手デビュー。中学、高校時代に同級生だった二人は、1973年にヤマハ音楽が主催するオーディションにそれぞれ合格、特待生としてヤマハボーカルスクールに通う事になる。講師の勧めで“クッキー”というデュオを結成し歌手を目指していた。クッキー名義で1974年のポプコン東海地区大会決勝に進出し「恋のレッスン」を歌っている。デビューのきっかけとなったテレビ番組『スター誕生!』出演時は、二人おそろいのオーバーオールを着、素朴な雰囲気で登場。歌も当時ほとんど無名に近かった、フォークグループの曲(ピーマンの「部屋を出て下さい」。メンバーのうち、叶正子は後にコーラスグループ「サーカス」のメンバーとして再デビュー)を唄う事で逆に注目され、合格する。後に増田恵子(ケイ)は素朴な田舎っぽいイメージはオーディション番組に受かるための手段で、当初より歌って踊れる歌手を目指していたと語っている。当時のテレビ局関係者には素朴な田舎娘だったとの印象が強く、フォーク歌手指向と語られ、グループ名が「白い風船」もしくは「茶ばたけ」になりかけたこともあった。 スター誕生で、会社の方針に逆らいプロデビューへの道を拓いたのは、ビクター音楽産業の飯田久彦であった。 歌手デビューに際し、全く異なるキャラクターにプロデュースされる。手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装にリズムやビートを強調した曲調により、郊外の田園風景が似合う素朴な二人組がアメリカのショー歌手も顔負けの派手な歌謡デュオになった。大胆に太ももを開いたりする激しくセクシーなダンスを行うことから、デビュー当初は成人向け深夜番組の出演が多かった。ピンク・レディーとは都倉俊一の命名であり、カクテルのピンクレディーに由来する。

なお、デビュー曲のB面に予定されていた「ペッパー警部」を強引にA面にし、セクシー路線に変更させたのは、資金繰りに苦しんでいたデビュー前のピンク・レディーの所属事務所から、人を介して融資を頼まれ「T&C」と社名変更させた上でオーナーとなった[1]、総会屋の小川薫である。T&Cの社長[3]と専務は小川の中学(幟町中学)時代からの友人で、原爆の焼け野原で一緒にボールを追った野球部仲間だったが、二人とも証券、生命保険の大手企業出身の堅気で、一攫千金を夢見て脱サラした人物だった[2][3][4][5]。

同様の歌手としては1970年代前半に人気を博した山本リンダの前例もあるが、山本が“大人の女”の色気を売りにし夜のイメージを感じさせたのに対し、ピンク・レディーは夏の浜辺のような明るく健康的なムードなのが対照的だった(山本の曲も阿久悠・都倉俊一コンビ作が多い)。デビュー直後にはキワモノ的な見方もされたが、まずは当時の子供たちが振り付け(すべて土居甫の手によるもの)を熱心に覚えて真似をし始めた。そのため山本リンダに代表されるかつてのセクシー歌手とは対照的に、老若男女に幅広く人気を獲得することに成功。レコードが大ヒットするだけではなく、人気が高まるにつれ衣料品や文房具、食器、果ては自転車や食品まで多くの業種のさまざまな商品に彼女らの姿がプリントされたキャラクターグッズが販売され、ピンク・レディーという存在は想像を絶する巨額の経済効果を派生させることになった。なお小川も、付き合いのあった企業へCM起用を売り込んだ。

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実はアメリカで成功していたピンクレディー

ピンク・レディー(Pink Lady)は、1970年代後半に活躍したデュオのアイドル。ミー(現:未唯mie、本名:根本美鶴代、1958年3月9日 - 、A型、静岡県静岡市葵区出身)とケイ(現:増田恵子、本名:桑木啓子(旧姓:増田)、1957年9月2日 - 、O型、静岡県静岡市葵区出身)の2人組。

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