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社会科学原論 〜「宇宙の法則」とは?

政治経済など社会現象、もちろん人間もまた「宇宙の法則」に左右されている。それを研究することにより、社会システムを創造できる筈。1990年代中頃の文のまとめです。

更新日: 2011年06月20日

fever7777さん

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0. 序の口

この世の中には「相対性」がある。これまで「絶対的」であると妄信されていたすべての「公理」は「相対的」である。ユークリッド幾何学も、慣性の法則も、アインシュタインの述べる通り、時間の観念すら「絶対性」はない。「神」の概念すら相対的なものである。

 近代自然科学は、平然とウソを並べている。否、真理ではないこと=相対的には真理と考えられること、を説いているに過ぎない。論理的に考えると、実証主義とは過去のトレンドから推理される「未来」を提示するだけで、「未来」を厳密に予測したものではない。過去において、地球は太陽の周りをXという周期で公転していたとしても、明日その公転活動を停止したり、逆廻りを始めたり、あるいはその軌道からはずれることだって、まったくない訳ではない。凝り固まった頭で、何を予測したいのであろうか?

 もう一例示そう。数字とは便利なもので、我々の日常から既に切り離せぬ概念となっている。まず、数が定義された時、123・・・と自然数のみで充分、用が足りた。その後、ゼロ、負の整数、有理数、と新しい概念が誕生し、さらに無理数、虚数と実態が見えにくい「数字」がでてきた。無理数、虚数とは数学を論理的たらしめるための便法であり、無理数は直角二等辺三角形の斜辺、あるいは円周として確かに実存するのでまだ良いが、虚数とは数学者の面子を守るだけの悪あがきにしか映らない。また、本来的にある数をゼロで割ることは出来ないというお約束があったわけであるが、微積分をやっていると0/0という奇妙な数字の羅列が見受けられる。0/0とは、確かにゼロをゼロで割っていることに他ならず、それは無限大だという。こうなると、矛盾を通り越して、寧ろ神聖さすら感じざるを得ない。

 ゼロは本来的な意義として、決して「何もない」状態ではない。「ゼロという状態」があるのだ。ゼロは自然状態であり、安定相であり、森羅万象の帰結した姿である。仏教では、人は生老病死という四苦や八苦を経由して、「無」に帰るという。「無」では魂は生きているのであり、決して何もない状態であるということではない。だからゼロ=無限大である。0/0を無限大と定義した数学者は、強ち誤謬を犯した訳ではない。

 ゼロ=無限大=自然状態=安定相を「宇宙の法則」と名付けよう。これこそが、すべての出発点になるのであるから。

1. 序二段

わたしはエコノミストでも政治家でもない。只、行く末の世界・社会を憂慮している一東洋人である。

 宇宙ないしは自然界には「法」がある。秩序・混沌(カオス)・禁忌(タブー)・空間・時間・誕生と破壊などの形而上・形而下の要素が混在化する「法」がある。人類は有史以来「法」を解明しようと様々な試みを行って来ている。これが科学であり、科学体系は、東洋思想・西洋思想・科学哲学などにサポートされながら、自然科学・人文科学・社会科学へと細分化されていった。

 さて、そもそも社会科学あるいは「社会」とは何であろうか?「社会」とは一体21世紀にはどうなるのであろうか?本稿の狙いはそこにある。

 社会の起源を遡るまでもなく、複数の生物ないし細胞があつまるところ「社会」は生まれると言って良いだろう。「人間」でなく敢えて「生物・細胞」としたのは、ムラをつくるサル、ウミネコなどの生物においても程度の差こそあれ、人間界と同質な文化・習俗が発生しており、われわれの脳細胞においても特定の細胞が人体の諸機関に指令を発する様は、ちょうど国家や企業と国民・従業員の関係に類している。したがって、「社会」の構造を俯瞰するためには、自然界・宇宙の「法」を探求しなければならないし、当然社会科学は自然科学を内包しなければならない。すなわち、社会科学の探求には自然科学のディシプリン(経験、仮説、実験、実証などのプロセス)が必要であり、そこには各種の哲学・自然主義思想との帰納・演繹関係が存在する筈である。

 しかるに昨今の「社会」をみると、これは明らかに「科学」ないしは「実証主義」の範疇を逸脱しているのではないであろうか。日本では明治維新、日清・日露戦争、大恐慌、敗戦、復興、高度成長、バブル経済の破綻などを経る近現代の歴史過程において、摂理・原則または精神を忘却の彼方へ捨ててしまったようだ。勿論、これは日本だけにみられる現象ではない。例えば、ソ連邦崩壊後の世界は、第三世界まで資本主義の育成に傾注、中国などリアリストのィ小平の指導の下、社会主義市場経済という本来相容れないと思われていた思想体系の融合を図ったなどの事例もみられる。

 資本主義とは、西洋的自由主義思想とプロテスタンティズムを柱とした経済思想であり、東洋の自然主義思想と本来の資本主義思想との根源は異なる。また、アメリカの資本主義が独立戦争(革命)を契機とした民衆主導型であるのに対し、日本の後発的資本主義は政府国家が推進する官僚主導型である。日本における資本主義は、経済主体である企業の利潤追求原理など見掛け上の自由主義をとっているものの、反面政府・官僚の裁量権の多さを特徴としており、実態は社会主義に極めて近い経済体制となっている。

さて、経済の考察は後に譲るとして、歴史の展開をみると「矛盾・カオス」が「破壊・蕩尽」を導き、それが「発展・繁栄」へと繋がる「弁証法的」過程を経てきた。勿論、そこには「微妙なバランス=調和」ともいえる平穏なプロセスが存在するが、平和な時代においても「乱を求める」民衆の心理もあって決して安定相ではないし、その社会システムの中にやがて大きな「矛盾」となるべき萌芽が内包されており、これが時とともに過剰化してゆく。

 ではなぜ民衆は平において「乱を求める」のか。これこそまさに「呪われた部分」である。「自由からの逃走」と称される現象についても、功利主義的発想からは説明不可能であり、実存的・突発的な人間の行為は、目的的行為論者ないし合理主義の見地からは把握するのに困難が伴う。

 結論を言えば、森羅万象(宇宙・自然・人間・社会システム・富・エネルギー・等々諸々)は決して一定の相はとらない。アウフヘーベンされた世界・秩序は最終形態とはならない。また、すべてのものには存在の「目的」はない。人間は「目的」を持って誕生してくるのではないし、「人生の目的」など幻想である。強いて挙げれば「死・破壊・蕩尽」こそ万物に与えられた「帰着点」である。しかしながら、その「帰着点」も最終「結果」ではない。

 仏教思想を想起されたい。諸行無常、生老病死、色即是空、四苦八苦、等々。「破壊」は次のステージで新たな「創造・誕生」を導く。即ち、「宇宙」とはとてつもなく大きな、無限大のエントロピー(永久機関)である。「破壊=ゼロ」の状態とは「何もない」のではなく「ゼロという状態がある」ことであり、ゼロは万物の原点である。従って、死に繋がる人生であっても、生きるに値しないなどと言うことはなかろう。

 予断ではあるが、オウム真理教が唱えた「ハルマゲドン」も強ち虚言であるとは思えない。(私は無宗教であり、テロリズムについては否定の立場である)それほど20世紀末の世界・地球・人類・社会システム・人間のこころには、矛盾・過剰が堆積されており、暴発寸前の状態にあるのだ。

 本稿では、以上の通り「原点」に回帰しつつ、様々な社会システムについて21世紀の姿を提示するものとする。

2. 人間

多くの社会システムは、形式上(見掛け上)「人間」が創造し、運用し、更にはアンチテーゼを掲げたり逸脱した行為(不法行為)を起こしたりする。この場合、社会システムの主体も客体も「人間」である。例えば、殺人を禁止する規範においては、その規範作成の動機づけは「人間」の意思によって為されたものであり、罰則を運用するのも「人間」であり、人を殺す意思(故意)を形成するのも同じく「人間」であると推定できよう。

 したがって、人文科学や自然科学のみならず、社会科学ですら「人間の性」について規定せざるを得ない。古くより性善説・性悪説と言った議論もあり、それが数多くの思想体系、宗教、学説へと分化して行った。

 客観的・唯物的な現象のみを扱うこれまでの経済学でさえ、「人間の心理的・情緒的側面」に対峙しなければならないケースがある。一例を挙げるなら、『罪と罰』のラスコルニコフが犯した行為(殺人による財貨の獲得)は経済学の通説的見地からは、彼の行為の不法性・非道徳性から「労働」ないし「経済行為」に当たらないとする。しかしながら、この「不法性・非道徳性」の判断は極めて「主観的」なもので、例えば似た行為で「親を安楽死させて遺産を相続する」行為には(安楽死に違法性を認める見解があるものの)「経済行為性」を認めている。遺産相続に「経済行為性」があることは、「相続税」が徴収されることをみれば明らかである。

 閑話休題、「人間」が「人間」たりえる条件とはなんであろうか。勿論、ヒトは他の生命体と同じく、炭素、酸素などの原子が複雑に絡みあい構成されている生物であり、哺乳類として脳、消化器、循環器、呼吸器、神経系等の生命システムを持ち、唯ヒトのみが高度な精神・文化活動を営むものとされる。しかしながら、レベルの差こそあれサル、イヌ、ネコなどの動物も、感情をもち自然界から様々な学習活動を行っている。

 また「人間」とはヒトの間と書く字面から、「社会性」こそがそのアイデンティティーとされている様であるが、サル山にも「社会性」はある。従って、人間だけが特殊な生物なのではなく、単細胞生物を含めた多くの生命体との共通性が散見され、結局はよく解らなくなってしまう。

 とすると、「人間の固有性」を探求するより、すべての生命体の「共通性」を吟味・検討する方が遥かに簡単な作業に違いない。

 食物連鎖というエントロピーがある。ウシが草を食み、そのウシはヒトの口に入り、ヒトはやがて土に帰りバクテリアによって分解される。また適者生存という概念がある。時の地球環境に適合できなくなった恐竜やアンモナイトは絶滅したし、疫病が流行すると今度はそれに強い人種が誕生している。

 これは、まさしく予定調和の世界であり、恰も「神の見えざる手」とも言うべきブラックボックスが存在するのだ。これこそ「宇宙の法」であり、自然界の摂理である。

 何千人に一人の割合で犯罪者がおり、あるいは歴史の節目にしばしば大きな戦争が勃発するのは、やはり「宇宙の法」ないしは何らかのブラックスボックスによって采配されているからではなかろうか。そうでないと、実存的かつ突発的な人間の行動は説明できない。

 ところで、人間(他の生命体にあるかは不明)の暗黙の意識として、アンビバレンツと定義されている正反対の価値観が混在している。絶望と希望、憧憬と畏怖など、これらの相反する感情が一見すると不可解な行為を発生させる。そして、このアンビバレンツは「宇宙の法」のもと成立しているものである。

3. 心理と規範

そもそも、何故人間は殺人行為を「禁止」するのか。言い換えれば、法・道徳・規範・禁忌(タブー)の根源は一体何処からくるのであろうか。

 刑法学の立場からは、殺人行為は「法益の侵害」にあたるとする立場と、「社会的規範の侵犯」であるとする見解の2派があるが、どちらも考え方に大きな相違はないと思われる。即ち、前者では「法益」の概念は「人間の維持・保守したいこと」を意味し、後者では「社会的規範」とは「人間の受けたくない被害」を示しており、結局「命を守りたいこと」と「殺されたくないこと」は異句同様である。

 「守りたいこと」と「被害を蒙りたくないこと」とは心理的欲求であるに他ならないが、規範とはこういった心理的欲求を背景としたものと説明される。

 しかしながら、なぜ心理的欲求が形成されるか根本的に追求してみる必要もあろう。

 それがヒトの遺伝子に由来するのか、神がかり的なものなのかはさて置き、殺人という行為が明文化ないし規定されたのは、実際にこの忌むべき行為が歴史的に多くの頻度で発生したからであると通説的には説明される。

 それでは何故、殺人行為が頻発したかというと、殺人者すなわち殺人を犯したい者がいつの時代も存在するためである。殺人の衝動は、止むに止まれぬ事情があろうが、単なる愉快犯であろうが、ここでは問題ではない。

 さて、しばしば指摘されることであるが、誰かに見るなと言われると見たくなってしまう体験は、皆持っているだろう。タブーを破ることは一つの快楽でもある。また、その禁止の圧力が大きければ大きい程、快楽のヴォルテージは高まる。

 殺人の場合も、禁止されているからこそ行為自体の快楽度は大きい。愉快犯の増加はこれを如実に物語っている。そればかりか、中学生による首なし殺人などストレートに行為と性的興奮が結びつくケースが多い。

 もう一つ更に進めて言うなら、規範の起源は「命を守りたい」ことでも「殺されたくない」ことでもなく、皆が「人を殺したい」という憧憬を持っていることである。万人に「人を殺したい」欲望があるからこそ、その欲望に歯止めをかけるため殺人行為を禁止するのだ。

 法・道徳・規範・禁忌がなく、人間の快楽が部分的にでも抑制されなければ「種の保存」が不可能である。法のルーツとは、快楽度が高い行為を押さえ生態系を維持させる宇宙的な営みと言うことができる。 しかしながら、宇宙の秩序は時として、このタブーを破壊する。戦争も殺人行為の一カテゴリーであるが、これは過剰化した生物を間引き、生態系の維持を図ろうとする宇宙からの要請であり、恰も盆栽の手入れさながらの様相である。また付け加えておくと、宇宙にとって「破壊」とは「創造」のはじまりなのだ。

4. 資本主義

マルクスの弁証法的経済論によると、資本主義は社会主義・共産主義に移行する過渡的段階であるという。共産主義を理想論・空想と把握するのは容易いが、歴史上存在した原始共産制も立派な共産主義制度であると考えられないものか。

 また、社会主義は崩壊したと評するものがいる。確かにそう考えることも正しいが、国家が存在すること自体、必ず社会主義的思想を内包していることも事実である。ケインズ経済学はニューディール政策の拠り所であり、当初マルクスの想定した「資本主義」の枠外の経済を提唱した。世界恐慌から第二次世界大戦に到るまでの列強の経済は、自由主義思想が抑えられた統制経済であり、「社会主義が加味された資本主義」であるとも言える。したがって、マルキシズムは一切死んだものではないし、資本主義に対するアンチテーゼとして社会主義が発生し、両者の複雑に融合した新しい経済形態にアウフヘーベンされたのである。それを資本主義と呼称することは自由であり、その資本主義でさえ、刻々と内容を変えてきている。

 また今日に資本主義経済は、アメリカが世界をリードしたものであり、その意味では「アメリカ型資本主義経済」と言えるが、これはまさしくアメリカの権益を優先に考えられた経済制度である。したがって、国家間の平等などということは本質的にあり得ないし、その土俵で勝負する限り、アメリカのつくったルールで運営されるのは自明の理である。日本という閉じた空間内では、日本型ルールでプレイすることは何ら問題はないことであるが、一歩外にでれば、アメリカルールを飲まねば、世界の孤児と化す。将棋の名人だって、ポーカーをやるときはそのルールに従うようなものである。

 このルールの中ではアメリカが最も強いのは当たり前ではあるが、いずれ一人勝ちとなるかというと左にあらず、競争相手がいなくなり、土俵自体が遠からず消滅するものと考えられる。盛者必衰とは、このことである。また経済制度のみならず、国際関係でもアメリカの行動は絶対である。国連という組織はアメリカを囲む会の総称であると解釈される。したがって、湾岸戦争でもコソボ問題においても民族的・歴史的論理を大幅に無視したアメリカの行動は、今日の国際的価値観では正義である。

 アメリカ型資本主義の消滅(すなわちアメリカの衰退)の兆候は、既に見え始めている。アメリカ経済は未曾有の成長を遂げているが、まさに風前の灯火の如く鮮やかな光を放っている。国内では犯罪・薬物など社会荒廃が顕著であり、好況にも関わらず国民間の貧富差は拡大基調、加えて国際的には歴史的な資産に優れるインドや中国といった大国が世界の覇権争いに参入しそうである。

 21世紀を越えてアメリカ型経済秩序が延命することは考え難いし、将来に資本主義自体が消滅することも事実である。それはあたかも、革命により崩壊したフランス絶対主義王政や源氏以来の武家政権のようなものであり、強固な制度・思想も必ず朽ちることは歴史的教訓から明白であるといえよう。

 さらに、産業革命・大航海時代以降、経済こそが国家基盤であり、すべてを計測するバロメーターであったのであるが、経済成長と同時に外部不経済が深刻化するというパラドックスが発生しており、先進国の国家財政が乏しくなるなかで、経済そのものの存在を如何に位置づけて行くか、今後の課題は大きい。

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fever7777さん

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