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歴史上の偉人たちのおもしろエピソード・逸話のまとめ

様々な歴史を作ってきた偉人たちの逸話をまとめました。

更新日: 2011年09月07日

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houjiteaさん

ビスマルクの矛盾

宿敵フランスの復讐を何より恐れた鉄血宰相ビスマルクは美食家で、シャンパーニュ産のワインを特に好んだ。


ヴィルヘルム1世「オットー、そなたが飲んでいるのはフランスのワインではないか。」

ビスマルク「畏れながら陛下、愛国心と舌は別物でございます。」

と国王にも切り返した。

蒙古襲来絵詞の本当

竹崎季長に立ちふさがる元兵三人は実は後世の加筆であり史料価値がない

竹崎季長
鎌倉時代中期における肥後国の御家人。通称は五郎。兵衛尉。法名は法喜。元寇における自身の戦いを描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる。

文永11年(1274年)、元(蒙古)の第一次侵攻である文永の役(元寇)では、博多において箱崎の少弐景資の軍に参陣し、息浜に陣した。合戦では、景資の許しを得て5名の郎党とともに赤坂へ赴く。赤崎では既に菊池武房が蒙古兵を討ち取っていたが、武房は少弐氏の指揮下ではなく、季長は戦傷を負いながらも一番駆けの武功を立てたとされている。

蒙古襲来絵詞
季長を中心に元寇での実戦の様子が描かれており、軽装歩兵・集団戦術で戦う蒙古兵の姿や、軍船、使用した「てつはう」などの兵器が描かれた唯一の画像史料として知られる。末尾には家訓とともに「永仁元年二月」(1293年)の日付が記されている(「永仁」への改元は同年8月)。
なお、絵巻物自体は中世のものと考えられているが、蒙古兵と日本騎馬武者の描写の違いなどから、後世の加筆、改竄、または編纂があったとする説も提唱されている。特に、季長と対峙する3人の蒙古兵は同じ絵巻の他の蒙古兵と装備や絵のタッチが明らかに異なり、近世に加筆されたと考えられており、九州国立博物館の文化交流展示室ではこの説が紹介されている。一方、後世の加筆や改竄ではなく、季長自身の指示による追加・手直しとの見方もある

古代ギリシャ、驚きの部隊

古代ギリシャにはホモ同士で編成を組んだ神聖隊という部隊があった 恋人を死なせないように奮戦させる意図があったと言われている

神聖隊
紀元前378年にゴルギダスによって結成された古代ギリシア・テーバイ(テーベ)の精鋭歩兵部隊である。

紀元前4世紀のテーバイのギリシア覇権確立に大いに貢献したこの部隊は、150組300名の男性の恋人同士によって編成されていたという。なぜ男性同士のカップルから成っているかというと、恋人を死なせないように、あるいはいいところを見せようとして奮戦するだろうという思惑があったようである。彼らは国費で養われ、平時は専ら訓練に励んでいた。
テーバイがギリシアの覇権を失った後もこの部隊は存続していたようであるが、紀元前338年のカイロネイアの戦いでマケドニア王子アレクサンドロス(後のアレクサンドロス大王)率いる騎兵部隊との交戦で254人が戦死するという壊滅的打撃を受け、それ以後結成されることはなかった。カイロネイアで勝利したマケドニア王ピリッポス2世は彼らの亡骸を見て涙を流し、彼らを讃えたという。
近代以降、ギリシア陸軍において何度か編成された精鋭部隊の「神聖中隊」という隊名は、この神聖隊の名に由来すると言われている

豊臣秀吉の秘密

豊臣秀吉の右手には親指が二本あった。秀吉の同僚で大老の前田利家が死ぬ少し前に
その事を述べており、また宣教師の記録にも残っている。だが様々な事情によりなかった事にされている

吉は指が1本多い多指症だったとルイス・フロイスの記録や前田利家の回想録『国祖遺言』に記されている。後者によれば右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。当時は(現在もそうだが)、多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても六指で生涯を通し、天下人になるまでその事実を隠すことがなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるものの、いまだにこのことに触れない秀吉の伝記は多い。

武人前田利家

晩年の槍の又左

利家は死の床で妻の松にこう言われた。
松「あなた様は今まで散々殺生を行ってきました。私が地獄に堕ちないように
  経帷子をこしらえて置きました。これを死の旅路にお使い下さい。」
  利家に着せようとした。

その問いに利家は
利家「わしは戦場にて敵を多く殺してきたが、無意味に人を殺したり、
   苦しめたことは一度も無いぞ!!だから地獄に堕ちる事は無い!!それでも
   ワシを閻魔が地獄に堕とすなら、先に行った者どもと一緒に地獄の閻魔
   を相手にひと戦してくれようぞ!!」着るのを拒否した。

武人とは最後まで武人と言うお話。

ゲーテ最後の言葉

文豪ゲーテの最期の言葉「もっと光を」
ゲーテの事だから何か特別な意味があると思われがちだが、
実は部屋が暗いのでカーテンを開けて欲しいという意味だった

ゲーテは死の直前まで『ファウスト』第2部の完成に精力を注ぎ、完成の翌1832年3月22日にその多産な生涯を終えた。「もっと光を!(Mehr Licht!)」が最後の言葉と伝えられている。

トーマス・エジソンの幼少期

小学校に入学するも、教師と馬が合わず中退した。当時の逸話としては、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、

「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」

と質問したり、国語の授業中にも、

「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ばないの?」

と質問するといった具合で、授業中には事あるごとに「なぜ?」を連発していたという。

・「なぜ物は燃えるのか」を知りたいと思い立ち、藁を燃やしていたところ、自宅の納屋を全焼させてしまったこともあった。これらが重なった挙句、最終的には担任の先生から「君の頭は腐っている」と吐き捨てられ、校長からも入学からわずか3ヶ月で退学を勧められたという。

・少年時代のエジソンは持ち前の好奇心が高じて、自らの手で新聞を作り、列車の中で売って評判になったことがあった。しかし、ある人物を皮肉った内容の記事を新聞に載せたところ、これを見て怒った本人から暴行を受けるという事態になったため、エジソンはこれに懲りて新聞を作ることをやめたという。

・エジソンは15歳の時、彼が働いていた鉄道の駅で、まだ幼い駅長の息子が汽車にひかれそうになったのを助けたことがあった。エジソンはそのお礼として、駅長から電信の技術を教えてもらい、後に彼が技術者としての人生を歩み始めるきっかけを与えてもらったという。

・エジソンはひとつの物事に熱中すると、他のことは完全に忘れてしまう性格の人間であった。彼が考えごとをしていた時、話しかけてきた妻に「君は誰だっけ?」と質問し、妻を怒らせたことがあったという。

「いろは」に隠されたメッセージ

いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
えいもせす

一番右側だけ読むと、「罪(とが)なくて死す」これの読み手(たしか敦盛)が無罪の罪をきせられて殺されたことからダイイングメッセージだと言われている

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