1. まとめトップ

この記事は私がまとめました

daiba49さん

日本の仏教界においてもスピリチュアルケアへの関心は高い。


仏教では終末期の看取りや苦痛緩和の支援活動を「ビハーラ」と呼び、各地の病院でビハーラ運動を展開し、患者の支援を行っている。

真言宗の高野山大学では2006年にスピリチュアルケア学科を開設した。

この高野山大学が事務局となって、2007年9月には日本スピリチュアルケア学会が設立された。


聖路加国際病院理事長・名誉院長の日野原重明氏を理事長に、医療関係者、キリスト教、仏教関係者が集まった。

年収の高い人は幸せなのかといえば、そうともいえません。お金持ちほどお金のことが気になりがちで、「減らしたくない」とか「損をしたくない」と考えるものです。お金で自分の小さなプライドを支えたり、お金にものをいわせようとするので、思うようにならないとすぐにイライラして心が乱れやすい。

結局は、貧乏だろうとお金持ちだろうと、お金を幸せの価値尺度にしている限り、常に苦みを抱えていたり、イライラしやすい状態に置かれているわけで、心が満ち足りた平穏な幸せというものにはほど遠いのです。

生きることは苦しいと。

しかし、この世は苦であると最初から思っていれば、どんな苦しみにも耐えられます。苦だと決まっているのだから、じたばたしたって仕方がない。

耐え忍ぶことを、「忍辱(にんにく)」と言います。

お釈迦さまは、苦にはひたすら耐えよとおっしゃった。苦に耐え抜いたとき、きっと予期していなかった心の平安が与えられるのでしょう。

「宗教なんか信じてなくて、神様も信じてないなら切れるだろう?」と言うと、「ダメです。そんなことできるわけないじゃないですか」とうろたえる。「何でできないんだ?」と聞くと、「バチが当たる」と。「誰がバチを当てるんだ?」「神様のバチが当たる」って。「おまえ、神様を信じてるのか?」「いや、神様なんて信じてません」と。「じゃあ、切れよ」って、そこで押し問答になるわけです(笑)。

山折:ははは。

上田:宗教的な感覚は持っているが、それは宗教ではなくて、単なる習慣としてやっているのだと考えている、その二枚舌。そこらへんから攻めていく余地はまだあると思うんですよね。やっぱりどんな子でも、家でエロ本を見るときは仏壇を閉めるというから(笑)。

先日、元オウム真理教の上祐氏の話を聞く機会があった。彼はカルト教団ではなくても、今、形を変えた「オウム的なるもの」が誕生する危険性について、話をしていたのが印象的だった。

あらためてオウム真理教とは何だったのか、昨年末に出版された「オウム事件・17年目の告白」を読んでいて、ふと気づいたことがあった。ブラック企業の組織原理ってまるでカルト教団そっくりじゃないかと。

いくらなんでもそれは言いすぎだと思うかもしれないが実によく似ている。
どんな点が類似しているのか。

この本は朝日新聞で宗教問題などを取材してきた記者によるルポです。前半が貧困問題、後半が自殺問題の内容です。

この本のではさまざまな僧侶が紹介されています。たとえば過去は問わずに宿泊場所と食事を提供する会社経営者でもある僧侶、自らが所属する宗派から去り、形式的には僧侶ではなくなったにもかかわらず貧しい路上生活者らに住居などを提供しようとする(元)尼僧、自殺をしようとする人への電話相談のために(事実上)24時間電話を受け続ける僧侶など、いやあ、すごいなと思います。もちろんここに紹介されている僧侶は、このような活動をしている人たちの中のごく一部ですが、しかしこのような問題に積極的に動いている僧侶もまた氷山の一角でしょう。

宗教側、体制側にとっては、己の存在意義を高めるのに好都合な為、
  憧れの偶像の肥大化に精力を注ぎ、雪だるま式に祭り上げる事になる。

  そういう類の一つであろう、、聖徳太子

法王の発言は、カトリックの公式的な見解になる。だから、信者全体に影響を与えます。これが政治だとか経済だとか科学の領域になっても法王の発言は大きく、それを無視することが、どの分野でも、どこの国でも、どこの民族でもできないんです。

1 2 3