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テレビでよく見る芸人を結成順に並べてみた【知られざる上下関係】

テレビでよく見る芸人を結成順(芸歴順)に並べてみました。

更新日: 2016年06月28日

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flyinghoneyさん

共に東京都出身で帝京高等学校を卒業。卒業後、2人は一般企業に就職するものの、「お笑いスター誕生!!」へのチャレンジ決意を機に再会。素人ながら4週目まで勝ち抜いたことを契機に2人は勤務先を退社し、プロデビューへと意志を固める。退社後の1980年に正式にコンビ結成した。

1982年4月、浜田が競艇選手養成学校の試験に落ち、友人であった松本を誘って吉本興業の新人タレント養成学校吉本総合芸能学院のNSC1期生として入学。(松本は就職先が決まっていたが、そこを辞退してNSCに入学した。)

定時制高校の卒業後は、手に職をつけたいと思い寿司職人か美容師の専門学校の入学を検討したが、当時入学料が5万円程度だった「吉本総合芸能学院」(以下、NSC)に目が留まり、「昔からお笑いも好きだし」と軽い考えで1985年、4期生としてNSCに入学した。その後、ほんこんとお笑いコンビ「ダブルホルモンズ」を結成するも、1986年にダブルホルモンズを解散し、ピン芸人として活動を始める。

1985年、横浜放送映画専門学院(現日本映画大学)の漫才の講義で一緒に組んだのをきっかけとして、コンビ結成。この時に講師をしていた内海桂子・好江の薦めで、マセキ芸能社所属のタレントとなる。

肥後は商業デザイナーから転身し、渋谷道頓堀劇場でお笑い芸人として活動。寺門と上島は劇団に所属する役者志望だった。劇団の先輩・渡辺正行の紹介により、3人が知り合った。3人はコント赤信号の劇団員として活動後、南部寅太と共に「ダチョウ倶楽部」を結成した。初代リーダーは南部だったが、1987年に彼が脱退して電撃ネットワークを結成したため3人編成となる。

1985年、高校3年生の時に吉本興業の新人オーディションを受け合格し、そのまま芸人となる。若手時代は心斎橋筋2丁目劇場を中心に活動、ダウンタウンが司会を務める公開生番組『4時ですよ〜だ』などに出演していた。

ビートたけしの追っかけとして出逢う。1987年にコント赤信号の渡辺正行が主催(当時)していた“新人コント大会”にコンビで出演を試みて以来コンビで活動している。

1988年5月、既に事務所からスカウトされていた高校時代の同級生に連れられ、ホリプロの事務所に遊びに行ったことがきっかけでお笑いの道へ進む事になった。1989年4月、ホリプロのお笑いライブに出演し、お笑いコンビ「バカルディ」として活動を開始。

2人とも劇団東京ヴォードヴィルショーや劇団七曜日などの小劇団に所属しており、そこで出会う(安田和博は郵便局で2年間内勤勤務)。その後1988年にコンビを結成。1990年から本格的に活動する。

日本大学藝術学部在学中に出会い、中退後の1988年3月にコンビを結成。渡辺正行主催のラ・ママ新人コント大会でデビューし、その場で太田プロにスカウトされる。

2人共吉本総合芸能学院(NSC)出身(1988年度・7期生)で、1989年3月(NSC卒業後)にコンビを結成。コンビ名の由来は、2人とも好きだったRCサクセションの曲『雨あがりの夜空に』から。

1989年2月に佐藤B作が主宰する「劇団東京ヴォードヴィルショー」の研究所「闘魂塾」の第4期生として入団し出会う。山本が起こした条例違反事件を受け、コンビとしての活動は停止となった。

1989年6月に千原せいじと千原ジュニアによる実の兄弟でコンビを結成。

1989年4月に大阪NSC8期生同士の2人でコンビを結成。コンビ名の由来は読んで字の如く、藤本の「藤」と原西の「原」を合わせたものだが、コンビを組んだ当初は漢字表記で「藤原」だった。

2人共にお笑い芸人として浅井企画に入る。同い年だが、ウドの方が一年先に事務所入りしている。当初はそれぞれ別々にコンビを組んでいたが、解散・単独活動を経て、山中伊知郎の助言により1991年にキャイ〜ンを結成。ウドの天野に対する溺愛ぶりが有名で、「お笑い界一仲の良いコンビ」と称される。

大阪府立茨木西高等学校サッカー部の先輩後輩として出会う。1990年、矢部が大学受験に失敗したことに伴い、当時吉本興業に先にお笑い芸人として同社に所属していた兄・美幸の薦めから、矢部は当時立命館大学夜間部の学生だった岡村を誘いNSCに9期生として入所した。

2人は熊本県立済々黌高等学校の入学式当日に出会い、その後共通の趣味であるプロレスをきっかけに意気投合。そろってラグビー部に入部し親交を深める。1991年にコンビ『海砂利水魚』を結成しコント山口君と竹田君の付き人としてスタートする。

専門学校東京アナウンス学院のクラスメートとして知り合い、1991年にコンビを結成。2001年に対馬が事務所に「ストレスが原因で、吐き気やむかつきがおさまらず、胃腸もかなり悪いので芸能活動は無理」として活動を休業。そして、U-turnを解散し、土田晃之として活動を始める。

幼なじみであった2人が、1992年8月に早稲田大学のお笑いサークル「早稲田寄席演芸研究会」内で結成。1992年、テレビ番組『新しい波』にコンビで出演する。

小学校3年生からの同級生である竹山隆範と中島忠幸が、東京で再会し1992年に「カンニング」を結成。2004年に相方の中島が急性リンパ球性白血病で長期休養することになり、竹山がピンで活動する事となり、現在に至る。

遠藤はサラリーマンを辞め無職だったため、専門学生だった田中を誘いオーディションへ。1992年5月、吉本バッタモンクラブのオーディションに見事合格しココリコボンバーズを結成。大阪出身だったが吉本興業東京本社(東京吉本)からデビューした。

高校の同級生・西口圭と一緒にNSC大阪校の11期生として入学。2人で「リミテッド」と称するコンビを結成した。1995年にリミテッドを解散してからはピンで活動している。

実の兄弟である兄・剛(つよし)と弟お・礼二(れいじ)による兄弟コンビ。共に吉本興業の大阪NSC第11期生で、1992年4月コンビを正式に結成し、1993年に2丁目劇場で初舞台を踏む。

高校の同級生である児嶋一哉(スクールJCAの第1期生)と渡部建(スクールJCAの第2期生途中入学)の2人が1993年に結成。プロダクション人力舎に所属し、1994年にデビュー。

中学・高校の同級生で組んだコンビで、共に大阪NSC12期生。1992年、NSC在学中の素人時代にJNN系列素人名人会・名人賞を受賞した。その後、1993年に結成した。

1992年4月大阪NSC入学(11期生)。NSC在学中「沖・小林」を経て、現ハリガネロックのユウキロックと「松口VS小林」を結成(1995年解散)。その後同期の村越周司と「モストデンジャラスコンビ」結成(2000年解散)。その後はピン芸人として活動している。

当初、原田は出身地が同じ友人とコンビ「パープルン」を結成。しかし、相方が多額の借金を作り地元に帰ってしまった為に解散。その時当時ピンで活動していた堀内に目が止まり、原田から声をかけて1991年に「フローレンス」を結成。原田と堀内は共にボケでツッコミがいなかったため、「ジュンカッツ」を解散したばかりの名倉を原田・堀内の2人が頼む形で引き入れ、1993年にネプチューンを結成。

1993年10月、2人の共通の知人であり、『東京フレンドパークII』に従業員として出演していた西秋元喜の呼びかけにより、日村・設楽と西秋の元相方を含めた4人グループを結成したのが2人の出会いのきっかけ。ところが設楽は、そのグループの2回目の稽古で、西秋とその相方がつまらないことに気付き、その翌日に西秋を呼んで脱退の意思を伝えた。これにより現在の2人体制となった。

1988年、大阪府枚方市にある関西外国語大学短期大学部穂谷学舎で同じクラスになり出会う。2人とも就職するも、1993年1月に2人はそれぞれの会社を退職し、正式に松竹芸能タレント養成所に入所。コンビを結成した。

東京のインディーズお笑い集団(集団田中)に2人とも所属していたことから出会い、1993年にコンビ結成。1994年4月、銀座7丁目劇場のオーディションに合格して吉本興業に入る。

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