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大阪のマニアックな墓地

更新日: 2012年04月12日

rokantaさん

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▼南濱墓所 ~日本最古の墓地~

【場所】大阪市北区豊崎。大都市圏梅田の近く。
【開所】西暦747年。
【由来】大阪七墓のひとつ。行基によって建てられた。日本最古の墓所・火葬場である(火葬場は現在は存在しない)。

由緒書き『南浜墓地・地蔵尊の由来』

南浜墓地は行基菩薩(約千三百年前)によって整地され我が国最初の墓所であって天平十九年七月弥陀如来六観音六地蔵尊を安置し荼毘開闢の供養が行はれた。その後世相の変遷により次第に荒退し大正十四年豊崎町より大阪市に移管された。
天満の住人秋田羅以(らい)は日頃嫡子を望み、神佛に祈願してゐた処ある日一人の行者が訪れ「南浜墓地の南浜地蔵尊を信仰せよ必ず願は叶へらる」と言って立ち去った。早速地蔵尊を祈願をかけたところ霊験あらたか明治二十四年一月九日男子(栄之助)が授けられた。その御恩報謝として同年九月に現存の地蔵尊石佛並御堂が建立され今日に至った。

昭和六十年一月二十日    道引き地蔵講世話人

▼葭原墓地 ~葦の茂る地にあった墓地~

【場所】大阪市北区豊崎天神橋6。日本一長い天神橋筋商店街のそば。
【開所】8世紀。
【由来】大阪七墓のひとつ。行基によって建てられた。現在は地蔵尊のみが残る。

由緒書き 『沖向地蔵尊由来』

西暦645年大化の改新が行われ、都が難波長柄豊崎に移され、色々の改革が着々と進んでいた頃、行基菩薩 (668-749)は大阪の南から北にかけて七カ所の墓地を作り、大阪七墓と称された。そのうちの1つが天満葭原のこの地の墓地であった。こののち法然(1133-1212)によって開かれた浄土宗ではこの墓地を守るため西の坊というお寺を建立した。その当時この付近は大阪湾の海岸線に近く、葭(葦)の生い茂る地帯で、この通りも昭和の末期(1980-1990)までは葭原(吉原)通りと呼ばれていた。このお寺にこの地蔵尊 阿弥陀如来、勢至菩薩が併祀された。その後海岸線は土砂も堆積し、近代は盛んに埋め立てもされ、建物も多く建って、現在ではとても海は見えないが、当時はお地蔵様の正面、西の方に海を見渡すことが出来たので、沖向地蔵尊と呼ばれるようになった由である。
大正10年(1921年) 大阪市がこの地に北市民館を建設するに当たり、この墓地は 現在の長柄墓地に移転されこの地蔵尊の堂宇のみ残された。10世紀に亘る度々の淀川の氾濫、最近では明治18年(1885年)の大洪水にも耐え、さらに昭和20年(1945年)3月の大阪大空襲にも付近一帯焼夷弾による大被害を蒙ったにもかかわらずこの堂宇は焼失を免れ、霊験あらたかなお地蔵さんと地域の人々に信仰され親しまれている。
ただ 堂宇は年代を経て 老朽化が著しいため平成15年(2003年)隣接の太田診療所の新築と同時に建て替えられ現在のお姿となっている。

天六東通り商店会会長 川島長利 撰文

▼蒲生墓地 ~飲み屋街に残る墓~

【場所】大阪市都島区東野田町3。立ち飲みや屋台が並ぶ下町の中。
【開所】8世紀?
【由来】大阪七墓のひとつ。行基によって建てられた。

「人ニハ『|(しんぼう)』ガ一番」と読め、重ね合わせると「金」になる墓碑。

▼真田山陸軍墓地 ~5万人の魂が眠る~

【場所】大阪市天王寺区玉造本町。三光神社そば。
【開所】西暦1871年。
【由来】旧陸軍によって建てられた。西南戦争から太平洋戦争に至るまでの戦没者が眠る。

墓標は5300柱、納骨堂には約4万3000余柱の遺骨が眠る。

戦後、管理が行き届いておらず、損傷が激しいものもある。

長柄墓地 ~明治に作られた広大な墓地~

【場所】大阪市北区長柄中。淀川近く。
【開所】西暦1873年。
【由来】明治6年7月に火葬禁止令が出された際に、近隣の墓地をまとめて新たに建てられたもの。

墓地の近くにある。9世紀の王妃の墓であるという説がある。

▼阿倍野墓地 ~長州の志士が眠る~

【場所】大阪市阿倍野区。
【開所】西暦1874年。
【由来】明治期に大阪市内3箇所にまとめられた墓地のひとつ。五代友厚の墓、長州藩志士の墓(死節群士之墓)などが有名。

1864年、京都で起きた禁門の変(蛤御門の変)で敗れた長州毛利藩の藩士48名が大阪で捕らえられ、自決又は処刑された。

▼備考

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