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プロ選手経験のないサッカー名監督【まとめ】

プロ選手経験のない、未経験、サッカー経験のないサッカー監督が気になったので、まとめてみました。選手経験のない人がライセンスをとってサッカー監督になるには、そのなり方とは?やはり語学が堪能・スカウティング経験・体育学を学ぶなどのインテリ系が多いです。

更新日: 2013年03月29日

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gangamatajiさん

ジョゼ・モウリーニョ (レアル・マドリード)

本人曰く「三流だった」選手生活を切り上げ、23歳でリスボンのスポーツ大学に入学。フィジカルトレーナーの免許を、さらにスコットランドに留学して監督免許を取得。イングランドの名将ボビー・ロブソンがスポルティング・リスボンの監督に就任したときに、29歳で通訳としての職を得る。
一介の通訳でしかなかったモウリーニョは、これに加えて対戦相手の分析するスカウティングの仕事に立候補するなど、積極的に職域の拡大を図る。持ち前の予測力と進言力で監督の全幅の信頼を勝ち得たモウリーニョは、1996年には通訳兼アシスタントコーチとして、ロブソン監督とともにFCバルセロナに移籍。そして2000年にはポルトガルに戻り、念願であったベンフィカの監督に就任。目覚ましい成果を挙げ、その後ウニオン・レイリア(2001)、FCポルト(2002-2004)、チェルシー(2004-2007)、インテル(2008-2010)、レアル・マドリード(2010-)の監督を歴任している。
就任監督として唯一UEFAチーム・オブ・ザ・イヤーに4度選出。また過去に3人しか達成していない、異なる2つのチームをチャンピオンズリーグ優勝に導いた監督のうちの1人。

オズワルド・オリヴェイラ (元鹿島アントラーズ監督)

サッカー選手としての経歴は無く、大学卒業と同時にフィジカルコーチへの道を歩む。49歳で初めて監督を務めるが、母国の名門・コリンチャンスの監督で、しかも当初は40日間の暫定監督であった。
2007年より鹿島アントラーズの監督に就任し、就任1年目でJリーグ優勝、さらに天皇杯も制し、2冠を達成した。翌年、翌々年にもJリーグ優勝を果たし、鹿島にJリーグ史上初となる3連覇をもたらした。2011年時点でJリーグ史上最多の国内タイトル(Jリーグ・天皇杯・Jリーグカップ・ゼロックススーパーカップ)を獲得している監督である。

アリゴ・サッキ (元イタリア代表監督)

プロサッカー選手としてのキャリアが無い。少年時代はサッカーに熱中し、青年期は靴の会社を経営する父親が本人のサッカーに対する意思を拒否し続け、その結果、父親の会社で働きながらアマチュア5部でプレー。その後、独学で指導者になるための勉強を続け、サッカー理論を身につけると、少年チームをコーチしながらコヴァルチャーノの監督コースを修了した。1977年にチェゼーナのユース監督に就任し、5年後の1982年にリミニというクラブで「大人」のチームの監督となった。
90年代にイタリア代表監督を務め、ゾーンプレスの生みの親として知られる。

アンドレ・ビラス・ボアス (チェルシー監督)

サッカー経験はあるが、ジャーナリストになるという夢を抱いていたビラス・ボアスは、16際のとき当時ファンだったFCポルトを率いていた故ボビー・ロブソン監督に、ストライカーだったパシエンシアの出場機会が少ないことを訴える手紙を送った。それが監督の目にとまり、スタッフとしてスカウトされ、スカウティングや統計部門の担当者としてロブソンの下で働き、当時チーフ・アシスタントだったモウリーニョからもかわいがられた。
モウリーニョとは、ともにポルトガル人で、プロサッカー選手としての経験がなく、短期間でポルト(ポルトガル)に複数のタイトルをもたらし、欧州チャンピオンズリーグや欧州リーグといった欧州カップ戦で優勝した直後にチェルシーの指揮官に就任した、英語を流暢に話す知性派、といった多くの共通点から比較されることが多い。
プレミア史上最年少の33歳でチェルシーの監督に就任。

マノ・メネーゼス (ブラジル代表監督)

プロ選手としての経験はなく、大学でサッカー選手する傍らで体育学を学んだ。1990年代後半から2000年代前半はブラジルの小クラブで指揮を執り、その後ブラジルで絶大な人気を誇るグレミオとコリンチャンスをいずれも1部再昇格に導くなど実績を残した。
2010年、ドゥンガの後任としてブラジル代表監督に就任。

ジョアン・カルロス (元鹿島アントラーズ、名古屋グランパスなど)

サッカー選手としての経験は全く無く、指導者としてのキャリアの最初はフィジカルコーチだった。
鹿島アントラーズ、名古屋グランパスエイト、セレッソ大阪、コンサドーレ札幌、ジャマイカ代表監督などを歴任し、Jリーグでは通算で4冠を獲得している。

三浦俊也  (元コンサドーレ札幌、ヴィッセル神戸など)

選手時代は無名、もちろんプロとしての経歴もなく、大学卒業後は養護学校の教諭をしながら地元クラブに所属。指導者になるという夢を捨てきれずに、27歳で単身ドイツにコーチ留学する。ケルン体育大学で5年半に渡ってコーチ理論を学びドイツA級ライセンスを取得し帰国、国内でS級コーチライセンスを取得した。大宮、札幌、神戸、甲府等で監督を歴任。サッカー番組の解説でも度々見かける。

山本佳司 (県立野洲高等学校サッカー部監督)

小学校の時に少年団でサッカー経験はあるが、本人曰く「いろいろなスポーツをやったうちのひとつという感じ」であり、日本体育大学時代にはレスリングの選手だった。大学4年生の時に交換留学で西ドイツのケルン体育大学へ行ったところ、大学の目の前に1.FCケルンのスタジアムと練習場があり、メキシコワールドカップ前であったためリトバルスキーやマテウスらドイツ代表が普通に練習しているという環境の中、本場の欧州サッカーに触れ、当時スタジアムで出会った風間八宏、足達勇輔、田嶋幸三氏らを車に乗せてフランクフルトまで一緒に観戦しに行くなど、サッカーにのめりこむ。
帰国後、水口東高校を経て、1996年より野洲高校に赴任。「国立」を目指す高校サッカーに違和感を持ち、「世界」を目指すサッカーを提唱し、就任当時、無名で部員数16名しかいなかったサッカー部を2003年の高校選手権に初出場でベスト8に導く。また、同年にはU-17日本代表コーチも務めた。
2006年の高校選手権において、2回目の出場で選手権初優勝を達成。クリエイティブなサッカーで「セクシーフットボール」旋風を巻き起こした。

佐倉ヒトシ (モンテビア山形監督) 【漫画・GIANT KILLING】

主人公・達海猛のファンを自称する、愛称「サックラー」。小学生時代からサッカー少年であったが運動音痴で試合に出ることができず、自分に才能がない事を自覚し高校時代半ばで自ら退部。以後はサッカー観戦が趣味となりフォーメーションや戦術を独自に研究してきた。大学時代に進路を模索していたころ、当時ルーキーだった達海の視野の広いプレイに衝撃を受け、達海と自らのサッカー観が似ていることに気づき、指導者を目指すことになる。仙台のチームでの事務のアルバイトから育成年代のコーチになり、その実績から山形のユースチームのコーチに招かれ、トップチームのコーチを経て監督に昇格。就任当初は、選手としての実績がないことから反発されていたが、結果を出すことによってチームをまとめ上げ、1部昇格を果たす。

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