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吉本隆明論 転向をめぐる三つの分類 変節/固執/発展

吉本の教育歴を見て気がつくのは、旧制高校とは無縁だったという点である。それはたんに進学しなかったというだけではない。旧制高校が射程に入った教育コースを辿っていない。

更新日: 2016年09月11日

twcritiqueさん

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前史小林秀雄と転向者

日中戦争開始後になっても小林は、マルクスについて単なる反共主義以上の関心を以て断続的にではあるが執拗に論じ続けることになる。また敗戦直前に獄中死した唯物論哲学者で好敵手[19]だった戸坂潤の誘いを受けて唯物論研究会に名を連ねてもいる。

小林はまた、転向者の面影を書いた文章も少なからず残している。戦後『大東亜戦争肯定論』を著し、戦後論壇に論議を起こした林房雄が、二度の入獄を経て転向する以前の好感を持てるユーモラスな性格の左翼文学青年時代を書き、林自身の興味深く辛辣な転向論を紹介している。この時代にあっては左翼知識人の検挙と転向は日常的な出来事であった。

吉本隆明論

戦争責任と吉本隆明

吉本は、1956年、丸山よりも先に、武井昭夫と共著で『文学者の戦争責任』を発表する。彼は、戦時中の戦争協力を再検討することで、共産党に入ったことで禊がすんだと思っている文学者を批判している。程度の差こそあれ、文学者の多くは戦争協力をしている。吉本が問題にするのは彼らの主体性のなさである。

戦中に共産主義から転向して戦争協力詩を書き、戦後になると、復党して、他の戦争協力を糾弾する。いずれも安易に行われたとしか思えない。吉本はこの無責任な変節を非難する。「戦争体験を主体的にどううけとめたか、という蓄積感と内部的格闘のあとがないのだ。極論すれば、壺井には転向の問題も、戦争責任の問題もなく、いわば、時代とともに流れてゆく一個の庶民の姿があるだけである。また、もしこういう詩人が、民主主義的であるなら、第一に感ずるのは、真暗な日本人民の運命である」。

吉本は自分は軍国主義者だったと語っている。大東亜共栄圏もアジアの植民地からの解放だと信じるファシストである。しかし、それは露悪ではない。彼の略歴では珍しいことではない。

吉本隆明は、1924年11月25日、父順太郎・母エミの三男として、東京市京橋区佃島東仲通4丁目1番地に出生する。他に兄二人姉一人妹一人弟一人がいる。祖父吉本権源次は熊本県天草市船大工の棟梁として小さな造船所を経営していたが、かの孫が生まれる少し前に一家そろって上京している。祖父と父は雇われ大工から始めて、隆明が小学校に上がる頃には造船所の他、門仲町や州崎、銀座裏の三吉橋にボート店を持つまでに成功する。隆明は、このような叩き上げで成功した技術畑の経営者の家庭に生まれている。

言うまでもなく、吉本は自らに戦争責任がないとは言っていない。自分にも責任がある。それは認識を深めることのない無知だったという点にある。

柄谷行人は、『倫理21』において、吉本が自分自身に認める戦争責任について次のように述べている。

 吉本隆明にとって許しがたかったのは、自分の無知です。(略)戦中世代の人たちは。我々は知らなかった、教わらなかった、欺されていた、ということができました。しかし、吉本がとったのは、無知にも責任があるという態度です。では、無知に責任があるとするならば、どのように責任をとればよいのか。自分をふくむ世界を、徹底的に認識するほかないのです。

勤労動員中に敗戦を迎えた選挙権もない20歳の若者なら、「知らなかった、教わらなかった、欺されていた」と弁解もできただろう。何しろ。一般国民どころか、近衛文麿でさえも「欺されていた」と言い訳をしている有様だ。

太平洋戦争末期の1945年2月14日、元首相近衛文麿が昭和天皇に対して上奏文を提出する。彼は、敗戦必至であるとして、ソ連と共産主義革命への警戒と共に、国体護持のために英米との早期和平を提言している。この戦争は軍内の革新派の一味による陰謀であり、和平の妨害や敗戦に伴う共産主義革命を防がねばならず、それにはこの一味を粛清して、皇軍を立て直すべきだと主張する。

転向をめぐる三つの分類

吉本の提供する「転向」をめぐる三つの分類は、決断を迫られる問題の吟味の際に、非常に有効である。転向=非転向では混乱するので、佐野・鍋山型を「変節」、徳田小林多喜二・宮本顕治型を「固執」、中野重治型を「発展」と言い換えよう。

イラク戦争に当てはめると、マイケル・ウォルツアーやフランシス・フクヤマが「変節」、トニー・ブレアや日本の推進派が「固執」であり、「発展」は従軍した兵士や遺族たちの中にいる。

吉本の教育歴を見て気がつくのは、旧制高校とは無縁だったという点である。それはたんに進学しなかったというだけではない。旧制高校が射程に入った教育コースを辿っていない。

吉本以前の主要な文芸批評家は、実は、旧制高校出身である。

小林秀雄や中村光夫は旧制一高、平野謙は旧制八高、福田恒存は急性浦和高校、花田清輝は中退しているものの旧制七高、武井昭夫も旧制東京府立高校、谷川雁も旧制五高出身である。丸山真男も旧制一高、近代文学派も荒正人と佐々木基一が旧制山口高校、本多秋五が旧制八高、小田切秀雄は放校されたけれども旧制東京府立高等学校に入学している。

1970年代くらいまで学閥は大学閥ではない。旧制高校閥である。

旧制高校での日々こそが青春であり、そこで同じ釜の飯を食った間柄は余人が立ち入ることができない。全共闘は戦前からのアカデミズムの慣例を解体したが、その一つに講座制がある。講座制は、言ってみれば、研究室を師団とする制度である。

1948年、丸山眞男は、『日本ファシズムの思想と運動』において、知識人の属する「岩波文化」と大衆が愛好する「講談社文化」を対照させて批判している。

講談社文化への批判事態は、戦前からすでに唱えられている。大宅壮一や戸坂潤がその代表である。しかし、丸山は、それを岩波文化と対比させ、大衆と知識人の問題として把握し、戦争責任と関連させて考察している。
 丸山は日本ファシズムの推進者を「講談社文化」、抵抗者を「岩波文化」に類型し、次のように主張する。

60年安保闘争の頃は、吉本も左翼思想家の一人にすぎない。まだ既成の革新政党の運動への影響力は大きく、学生たちのスターは花田清輝である。吉本は、56年から、その彼と論争を繰り返す。今日から見て、吉本は悪口雑言を吐いているだけで、花田の方に理がある。けれども、花田は共産党員であり、党に失望しつつあった若者たちには論争の内容など二の次である。勝負は「情況」が決める。

学生運動は反体制的な色彩を帯びていたが、その中に、戦後民主主義が欺瞞に満ちていると批判するものたちも含まれている。彼らの意見は、根本的どころか、近衛文麿の「英米本意の平和主義を排す」と違いがない。彼らは、結局、大正デモクラシー後の近代の超克に向かう。60年代が過ぎると、戦争体験のある知識人たちの中から「悔恨共同体」ではなく、「無念共同体」(林房雄)へと転向していく者が出現する。

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