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clavierさん

オリンピックの象徴である5つの輪のマークは世界5大陸を意味している。オリンピックのマーク  は正式にはオリンピックシンボルといい単色、または5色(青・黄・黒・緑・赤)の輪を軸状に組み合わせたものである。5色の輪は世界5大陸(ヨーロッパ・南北アメリカ・アフリカ・アジア・オセアニア)と、その相互の結合、連帯を意味している。しかし、何色が、どの大陸を指しているということはない。

出典http://www.kuin.jp/mics/sport/olympic02.htm

実はどれも銀メダル!?

金・銀・銅メダルはどれも銀からできている。現在の金メダルは、純度1000分の925の銀製メダルに金ぱくを張ったものなので、実質はやっぱり銀メダルである。大会ごとにメダルのデザインや特徴が違っている。

 ちなみに第1回アテネ五輪は資金難の中で実施された大会だったので、優勝者には銀のメダルとオリンピアの聖木オリーブの葉冠が、2位に銅のメダルと月桂冠が贈られ、3位以下にはなにもなかった。メダルも直径約50ミリと小さく、表にはゼウス神の肖像、裏にはパルテノン神殿が彫られていた。金銀銅のメダルが授与されるようになったのは、第4回ロンドン五輪から。

入場行進のプラカードは最初はJAPANじゃなかった!?

五輪開会式の入場行進時の日本選手団のプラカードは『JAPAN』。しかし、日本が初参加した1912年ストックホルム大会の開会式で、マラソン代表の金栗四三が掲げた国名標は『NIPPON』だった。金栗は黒の足袋を履いており、珍しがられた。旗手は陸上短距離代表の三島弥彦が務めた。

 この時代はまだ日本は「JAPAN」という英語の呼び名を認めていなかったが、大会組織委員会の扱いは「JAPAN」で、入場行進の順番もイタリア(ITALY)とルクセンブルク(LUXENBOURG)の間だった。

全員メダルが貰える種目があった!?

1932年ロサンゼルス大会のホッケー。日本は銀メダルを獲得した。といっても、参加チームは3カ国だった。日本を決勝で11-1で下したインドが優勝で、日本に2-9で敗れた開催国の米国が3位。全チームがメダルをもらった。

 第1回アテネ大会では選手募集は大学の掲示板や新聞広告などでも行われ、認知度が低かったため参加選手も少なかった。海で行われた競泳の100メートル、500メートル自由形の2種目は水兵のみ3人だけしか出場しなかった。第2回パリ大会の陸上ハンマー投げも、3人のみの出場だった。

体操は室内競技じゃなかった!?

体操は体育館でやるもの。今ではこれが常識だが、あん馬や跳馬は乗馬術から発展、ゆかは徒手体操が発展したように、体操競技は空の下でやる競技だった。たとえばマス・ゲームなどもその流れをくんでいる。

 第1回アテネ大会も当然メーンスタジアムのパナシナイコ競技場で実施され、鉄棒、あん馬、平行棒、跳馬、つり輪のほか、綱登りなどの種目もあった。1960年ローマ大会はカラカラ帝の大浴場の遺跡にテントを張って実施。体育館を使用して完全な屋内競技となったのは、64年東京大会からだ。

第1回アテネ五輪の陸上競技トラックは逆まわりだった!?

初の近代五輪のメーン会場、パナシナイコ競技場のトラックは一周333.33メートルの細長い楕円形で、コース間にはロープが張られ、はみ出さないようになっていた。このトラックは現在のような左まわりではなく、時計と同じ右まわりだった。

 当時の陸上トラックの走行方向は決まっておらず、一説によると、欧州で盛んな競馬は右まわりのレースが多いことから、五輪トラックでも右まわりが採用されたという。しかし、人間は一般的に左足が軸足、右足が蹴り足のために左まわりの方が走りやすく、第2回パリ五輪からは現在と同じ左まわりになった。

第1回アテネ大会から継続採用されている競技は幾つある?

第1回大会から途切れることなく実施されている競技は、陸上、水泳、体操、フェンシングだけ。フェンシングとは意外だが、当時欧州で盛んだった競技が中心に選ばれた。1959年のIOC総会までは、オリンピック憲章の中でもフェンシングは開催必須競技として挙げられていたほどだ。

 これまで、夏・冬すべての五輪に選手を送っているのは、フランス、スイス、英国の3カ国だけ。米国、日本などの西側諸国がボイコットした80年モスクワ五輪にも、果敢に選手を派遣した。

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