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名将【織田信長】の有名な戦い

戦国の革命児「織田信長」の有名な戦いをまとめてみました。

更新日: 2012年09月07日

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tuaotuaoさん

【織田信長基本データ】
出身 : 尾張(愛知県)
生没年 : 1534年~1582年
父親 : 織田信秀
後継者 : 織田信忠

稲生の戦い(1556年)

相手:信長の弟「織田信行」
勝敗:快勝
コメント:1551年に父・信秀が病没、信長が後を継ぐ。信長に当主の器量無しとみた、林通勝、柴田勝家らは、聡明で知られた信長の弟・信行を擁立。織田家は二つに割れ、内戦へと突入する。戦いは、兵力の差もあり、信長方が圧勝、信行は降伏する。生母・土田御前の仲介により信行を許すが、後年、信行は再び信長に背く。この時はさすがに許さずに処刑している。晩年の信長を見ていると、裏切り者には徹底的に報復しているが、この時期は身内に対しての優しさも見える。実際、信行の子・津田信澄は家臣に取り立てられている。信長が苛烈な性格になっていくのは、信頼していた義弟・浅井長政に裏切られて九死に一生を得た体験以降のような気がする・・・

桶狭間の戦い(1560年)

相手:駿河の大名「今川義元」
勝敗:奇跡の勝利
コメント:兵力差が5倍とも10倍とも言われる、日本史でも有数の大逆転劇。2万5千とも言われる大軍勢を率い、今川義元が尾張に侵攻。通常なら籠城をするところを、奇襲により撃破。総大将の義元を討ち取るという大勝利を収める。信長の優れている所は、2点ある。1点目は、義元を討ち取った家臣より、義元の居場所を調べた家臣を褒めた事。「武勇に優れていなくても、織田家では出世できる」この事を家臣に分からせた功績は大きい。後に出世する秀吉や光秀は明らかに知略で勝負する家臣。家臣団のモチベーションアップにもなった事だろう。もう1点は、「少数による奇襲」という大成功を収めた桶狭間の作戦を以後使用しなかった事。戦略の基本は、「敵より多くの兵力を整える事」この事を信長は良く理解している。自分の成功におごる事のなかった信長はやはり名将にふさわしいと思う。

美濃攻略(1567年)

相手:美濃の大名「斎藤龍興」
勝敗:快勝
コメント:「美濃を制する者は天下を制す」。尾張を統一した信長は、桶狭間の翌年から美濃侵攻を開始する。信長の美濃攻略の決め手となったのは、謀略である。初期の信長は、謀略をあまり用いない戦い方が目立ったが、美濃攻略において、二人の知将から謀略の効果を学ぶ。一人は、敵方の竹中半兵衛である。半兵衛は、主君・斎藤龍興を諌める為、謀略を用い、わずか10数人で岐阜城(当時は稲葉山城)をのっとってしまう。もう一人は家臣である羽柴秀吉である。秀吉は、斎藤家の有力家臣である「西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)」を、織田方に裏切らせる。この秀吉の謀略がきっかけとなり、7年かかった美濃攻略は成功する。尾張・美濃を支配下に置いた事により、信長は戦国の主役へと踊り出ることになった。

姉川の戦い(1570年)

相手:越前の大名「朝倉義景」と北近江の大名「浅井長政」
勝敗:勝ち
コメント:1570年春、信長は長年の宿敵朝倉義景を討伐すべく、越前に侵入。信長の越前侵攻は、義弟・浅井長政にとって、盟約違反とも言える寝耳に水の出来事で、信長の行動に激怒。信長を裏切り、信長を討つべく、織田軍を背後より襲う。前面を朝倉、背面の浅井に挟まれた信長は絶対絶命のピンチに陥るが、羽柴秀吉・徳川家康・松永久秀などの活躍により、虎口を脱出。無事京都まで逃げ戻る。この浅井の裏切りへの報復として行われたのが、姉川の戦いである。戦いの序盤は、浅井軍の猛攻にさらされ、本陣近くまで侵入を許すも、徳川軍の活躍により、態勢を挽回。辛くも勝利する。

長篠の戦い(1575年)

相手:甲斐の大名「武田勝頼」
勝敗:快勝
コメント:信長の代名詞とも言うべき合戦。鉄砲の三段撃ちや馬防柵の使用など、虚実交えた説がたくさんあるが、一番の要因は、絶対的とも言える兵力差。武田軍の3倍にも及ぶ兵力を設楽ヶ原に集め、尚且つ、勝頼を正面決戦に引きずりこんだ事が勝因であろう。1対3の兵力で正面からぶつかれば単純な図式となる。いずれにしろこの戦いの結果、武田軍は信玄以来の宿将を多数失い、武田家は一流の軍事国家から三流の軍事国家に転落した。これ以後、武田軍が信長を脅かす事は、無かった。

■本願寺攻略(1580年)

相手:本願寺法主「本願寺顕如」
勝敗:辛勝
コメント:信長にとって最強の敵は、武田信玄でも上杉謙信でもなく、実は本願寺であった。本願寺は浄土真宗の総本山で、全国のいたるところに寺と信徒を多数持ち、財力・兵力ともに大名クラスの力を持った勢力であった。実際、上杉謙信・徳川家康・朝倉義景などの戦国大名は、本願寺と戦い痛い目にあっている。信長が上洛した時から、本願寺との冷戦は始まっており、信長は本願寺を無力化するのに10年以上の年月をかけている。信長に敵対した勢力の中で、これだけ抵抗した勢力は皆無で、難攻不落の石山本願寺は最後まで力で落城する事はなかった。最終的には天皇の力をかり、本願寺を移転させる事を条件に開城させた。本願寺の無力化により、本州中央部で信長に敵対する勢力はほとんどなくなり、信長の天下統一は決定的となった。あの本能寺の変が起こるまでは・・・・

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