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PSUB4563さん

▼将軍、姫、大名の食事

将軍の朝食は、二の膳まで付き、まず一の膳には、飯、汁、刺し身と酢の物などの向こう付け、平(煮物)が乗っていた。二の膳は、吸い物と焼き物だ。二の膳の焼き物は、キスの塩焼きに付け焼きの二種と決まっていた。
キスは「鱚」(喜ばしい魚)と書くところから、縁起のいい魚とされていたのだ。ただそれだけの理由で、将軍はほとんど毎朝、キスを食べなければならなかった。ただし、毎月一日、十五日、二八日には、キスの代わりに、タイやヒラメの尾頭つきがついた。将軍の昼食も、二の膳つきだ。魚は、タイやヒラメ、カレイ、カツオなどが付く。ほかに、将軍の所望する献立も出てくる。

13代将軍徳川家定の正室の天璋院篤姫が食べた料理が再現された。

献立の内容は刺し身・焼き物・汁物・干物・めん類など。中には、当時最高級の食材とされたツルの煎り物(いりもの)や、イルカの汁物、江戸時代に長州名物となるサバの背わたの塩辛(現在は作られていない。深みのある辛さで、カツオの内臓の塩辛「酒盗(しゅとう)」に似る。)など、珍しいものが数多く記されています。

弘化元年(1844)5月牧野遠江守が中仙道蕨宿
本陣加兵衛家に宿泊した時の夕食の献立を再現画像の紹介。
一番左は焼魚(わかなこ)
真ん中は飯、味噌汁(根芋)、たくあん、
    あんかけ(生いか、いんきんのせん)
    長芋、椎茸、あわび、玉子焼き
一番右はレンコン、酢の物(白瓜、いなご)

▼庶民の食事

出典pub.ne.jp

主菜は、焼き魚と煮物。ご飯はおひつにどんと入っている。

和風総本家などでやっていたように、江戸庶民のおせちは簡単なものであったらしい。しかも、家で作るのではなく買うものであったそうだ。

江戸庶民のおせち
   ・黒豆
   ・田作り
   ・数の子

▼以下は現代でも日常で食べられてる代表的な料理

アサリを他の具(長葱・油揚げなど)とともに醤油などで味付けをして煮る。その煮汁を加えて飯を炊き、炊き上がったら具を戻してかきまぜる。

大ぶりのどじょうは開いて頭と内臓を取り、小さいどじょうはそのままで、ネギやゴボウとともに割下で煮て卵で綴じた柳川鍋とされることが多い。卵で綴じないものはどぜう鍋と呼ばれる。

江戸時代の天保以降マグロが食されるようになり、当時は赤身は主に醤油に漬けて保存された。この保存法をヅケ(漬け)というが、醤油をはじき返す脂身(現代に言うトロ)の部分は腐るだけの余り物で、肥料にされるか廃棄された。しかし庶民はこれを上手く工夫して調理、ネギと共に煮たもの(多くの場合は醤油味)が葱鮪鍋、吸物仕立にしたものが葱鮪汁である。

江戸時代の頃には「三鳥二魚」と呼ばれる5大珍味の1つに数えられていた。水戸藩から皇室に献上されていた郷土料理である。三鳥二魚とは、鳥=鶴(ツル)、雲雀(ヒバリ)、鷭(バン)、魚=鯛(タイ)、鮟鱇(アンコウ)のことである。

徳川家康時代の江戸では、江戸湾の干拓事業に伴い多くのウナギが獲れたため、ウナギのことを「江戸前」と呼び、ウナギの蒲焼が大いに流行した。「江戸前大蒲焼番付」という本が発売されるほどであった。
「夏バテ防止のために土用の丑の日にウナギを食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告キャッチコピーが元との説が文政5年(1822年)の『明和誌』にある。

「半熟れ」という酢を加え醗酵を早めた寿司が文化元年(1804年)ごろ流行していた。それに使用していた米酢をミツカン初代中野又左衛門が粕酢(赤酢)を販売し使用されるようになった。
江戸前握りずしの創案者は、両国は「與兵衛鮓(よへいずし)」の華屋與兵衛とも安宅の「松之鮨(まつのずし)」、堺屋松五郎ともいわれる。文献的には文政12年(1829年 1827年作句)『柳多留』に「妖術という身で握るすしの飯」とあるのが初出である。

天ぷらの形が出来上がった江戸時代前期は、「天ぷら屋」と呼ぶ屋台において、串にさした揚げたての天ぷらを立ち食いする江戸庶民の食べ物であり、屋台ではなく天ぷら店として店舗を構えるようになったのは幕末近くであった。

醤油をベースにした温かい汁で食べるぶっかけそばが、江戸時代中期に広まった。そこに鴨肉とネギを乗せて鴨南蛮の形にしたのは、日本橋馬喰町にあった「笹屋」とされる。一寸五分ほどのネギを縦に割って炒め、鴨肉を加えて煮たものを乗せたこの鴨南蛮は、当時の好みに合い繁盛したという。

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