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【なぜ?呪い!?】歴代の韓国大統領の末路がヤバイ【事件を詳しく載せました】

なぜ?歴代の韓国大統領の末路が大変厳しいことになっています。本当に「呪い」かも?

更新日: 2012年12月19日

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kon40さん

歴代の韓国大統領の末路ヤバすぎワロタwwwwwwwww

李承晩

初・2・3大統領 「李承晩」
彼の養子が実の両親を殺害。不正選挙を糾弾されハワイに亡命。そのまま客死。

李 承晩(イ・スンマン、1875年3月26日 - 1965年7月19日)は、朝鮮の独立運動家で、大韓民国の初代大統領(在任1948年 - 1960年)。本貫は全州李氏。号は「雩南」(ウナム、우남)。字は「承龍」(スンニョン、승룡)。

李承晩はフランチェスカ夫人との間に実子がいなかったため、遠縁にあたる側近で副大統領候補でもあった李起鵬の長男・李康石を養子に迎えた。李康石は1957年にソウル大学校に入学をするが、その入学が特恵措置によるものであったことから騒動となった。しかし李承晩の独裁下では批判が出来ようもなく、案の定「独裁者の息子」はたびたび問題を起こし、朝鮮日報社『韓国現代史119事件』ではこう記されている。

1957年8月、9月は李承晩政権の絶頂期。李康石は街の無法者となり、警察官を殴ったり、派出所の器物を壊して歩いても、誰も告発したり、処罰するものはいなかった。”
この風潮に便乗する格好で、1957年8月末に姜聖柄という22歳の男が李康石になりすまし、「父から密命で公務員の不正を調べている」と地方の道知事や警察署長などを騙し、厚い接待を受けたり金品を要求するという事件を起こした。事件発覚後、慶州知事の「貴いお方が一人でいらっしゃったのだから」という発言が取り沙汰され、かねてからの李康石への無法への反感や政権への不満感から「貴いお方」という言い回しが流行語となった。
1958年、大統領選挙での自身の当選が不可能と判断すると有力な対立候補であった曺奉岩を逮捕し処刑する(進歩党事件)[17]。
1959年12月4日には、日本政府による在日朝鮮人の北朝鮮への帰還事業を阻止するために、李承晩政権は密かに日本に「北韓帰還阻止工作員」を送り込んで新潟日赤センター爆破未遂事件を引き起こした。

1960年、李承晩が四選を狙った大統領選挙に際して、野党の大統領候補・趙炳玉がアメリカで病気療養が長引いている(同年2月に客死)ことを見計らって李承晩は選挙期間を早めた。野党は「悲しみをおさめ、また戦場へ」をスローガンで国民に同情を訴えたが、与党は「ケチつけるな、建設だ」というスローガンで対抗した。この選挙では与党の不正工作はより徹底された。副大統領の当選を確実にするために公務員の選挙運動団体を組織し、警察にそれを監視させるなどの不正工作・不正投票などが横行した

1960年3月15日、大統領李承晩、副大統領李起鵬の当選が報じられると、特に不正が酷かった慶尚南道馬山では民主党馬山支部が「選挙放棄」を宣言。それは即座に不正選挙を糾弾するデモへと発展し、これに市民も参加。「デモは共産党主義者の扇動」を主張する当局がデモ隊に発砲し、8人死亡50人以上が怪我という惨事になった。

4月20日、アメリカのマカナギー駐韓大使が景武台を訪れ、「民衆の正当な不満に応えないのなら、アイゼンハワーの訪韓を中止し、対韓経済援助を再考する。一時しのぎは許されない」と、李承晩に対して事実上の最後通牒を突きつけ、頼みの綱だったアメリカにまで見放された形となる。4月23日には「行政責任者の地位を去り、元首の地位だけにとどまる」と完全に地位から退くことを否定する発言をし、民衆の怒りは最高潮に達する。

政府は各主要都市に非常戒厳令を布告した。デモは約1週間続き、4月25日には、ソウル大学を中心とした全国27大学の教授団が呼びかけた「李承晩退陣」を要求する抗議デモが発生、ソウル市民3万人が立ち上がり、韓国全土に一気に退陣要求の声が広がった。このとき、学生代表5名と会見した李承晩は「若者が不正を見て立ち上がらなければ亡国だ。本当に不正選挙ならば君たちの行動は正しい。私は辞職しなければならぬ。」と語り、覚悟のほどを示した。(金大中『私の自叙伝』)翌4月26日には、パゴダ公園にある李承晩の銅像が引き倒され、腹心である李起鵬副大統領の邸宅が襲撃される事態にまで発展。国会でも、大統領の即時辞任を要求する決議が全会一致で採択された。このことを受けて午前中に、李承晩はラジオで「国民が望むなら大統領職を辞任する」と宣言し、下野した。12年間続いた独裁体制はようやく崩壊することになった。2日後の4月28日に、李康石が一家心中を図って李起鵬一家を射殺、自らも命を絶った。


亡命する李承晩(左から二人目)
左側に過渡政権首班・許政
李承晩は5月29日早朝に夫人を引き連れ、金浦国際空港からアメリカ・ハワイに亡命した。見送りに訪れたのは、大統領代行となった許政外務部長官だけだった。1965年7月19日、その地で李承晩は90年の生涯に幕を閉じた。因みに、フランチェスカ夫人は夫の没後、故郷であるオーストリアを経て、1970年5月16日に韓国へ戻り、1992年3月19日にソウルにおいて92歳で死去している。

尹譜善

第4代大統領 「尹譜善」
クーデターで退任を余儀なくされる。軍法会議で懲役3年の判決。

尹 潽善(ユン・ボソン、1897年8月26日 - 1990年7月18日)は、大韓民国第4代大統領。本貫は、海平尹氏。号は海葦(해위)。尹致昊·尹致旺の従甥、尹致暎の甥。尹致昭(尹致暎の異母兄)の長男。
忠清南道牙山市生まれ。独立後初代のソウル市長として政界入りし、商工相・大韓赤十字社総裁を経て民主党最高委員に。4.19革命で李承晩が失脚・亡命すると、民主党旧派の代表格として8月12日に大統領に選出された[1]。しかし、新派の代表格で政治的実権を握っていた張勉首相との確執が絶えず、自ら民主党を離党して新民党を結成。5・16軍事クーデターの遠因を作った。
大統領辞任後は野党の指導者として二度朴正煕に挑戦するなどし、軍事政権への抵抗と民主化運動に取り組んだ。

大統領在任中
その後、4・19革命後に行なわれた1960年7月29日の第五代国会議員選挙で3選、同年8月12日には両院の合同会議で大統領に選出される[2]。民主党旧派の指導者である彼は野心がないように行動、新派の指導者から簡単に支持を得た。翌1961年5月16日に5・16軍事クーデターが発生、クーデター軍からの要請もあり大統領の座に留まるが、翌年3月に軍政が制定した政治活動浄化法に抗議するため下野した。

朴正煕

第5~9代大統領 「朴正煕」
長男が麻薬服用で逮捕される。狙撃事件発生。弾がそれて夫人に命中。死亡。直後、金載圭KCIA部長によって暗殺される。

朴 正煕(パク・チョンヒ、박정희、1917年11月14日(時憲暦9月30日) - 1979年10月26日)は、大韓民国の軍人、政治家。第5 - 9代大統領(在任:1963年 - 1979年)を務め、軍事独裁・権威主義体制を築いた。また、日韓基本条約の締結を行い、韓国の奇跡的な経済発展である漢江の奇跡を実現させた。本貫は、高靈朴氏。号は「中樹」(チュンス、중수)。

内政は典型的な開発独裁であった。軍備増強よりも経済基盤の建設を優先した。軍人としては珍しく強い経済マインドを持つ人物だった。クーデター直後、最初に着手したのは農村における高利債整理法(一種の徳政令)であった。

自分を脅かす者は政敵ばかりか与党の有力者であっても退け、独裁体制を維持し続けていた。1974年8月15日、日本植民地統治から解放されたことを記念する光復節の祝賀行儀に参加していたところ、在日韓国人・文世光に銃撃を受け、朴正煕自身は無事だったものの、夫人の陸英修が頭部を撃たれて死亡した(文世光事件)。

文は左側の腰に隠した拳銃を抜こうとしたが、誤って引き金に触れ、自分の左側の太股に貫通傷を負ってしまった。因みに、その時の銃声はスピーカーの音で消され、周囲は誰も気付かなかったという。それでも文は、朴大統領が祝辞を読みあげている途中で客席から立ち上がって通路を走り、20m先の壇上に向け2発目の弾を発砲したが、大統領は軍人出身ということもあり、銃声を瞬時に聞き分け、反射的に演壇の後ろに隠れ難を逃れた[2]。3発目の引き金を引いた際は不発だったが、直後、標的を失った文が立て続けて撃った4発目の弾が、椅子に座っていた大統領夫人の陸の脊髄に命中、第1弾が発射されてから、わずか7秒の出来事だった。最後の1発は、演壇の後方にある太極旗に当った。

大統領は、夫人が重傷を負い病院に搬送されたにもかかわらず、「私は大丈夫だ」と言って、麦茶を一杯飲み終えた後、何事もなかったかのように最後まで毅然と演説を続け、その場に居合わせた観衆からは大きな拍手が送られた。しかし、式典の終了と同時に病院に駆けつけ、夫人の死亡を耳にした際には、その場で大声を上げて泣き崩れたという。
当日は、白善燁交通部長官の奔走と、日本の全面的な技術支援を得て開通した、ソウル地下鉄1号線の完工式も開かれる予定だった。工事関係者や在留邦人など多数の日本人が待機していたが、「犯人は日本人」と伝えられたため、全員避難させられ、完工式の式辞でも日本の支援については全く触れられることはなかった。

10月26日夜、ソウル市鍾路区宮井洞(クンジョンドン)にある中央情報部所有の秘密宴会場で、歌手やモデルなどの部外者も出席の上で大統領を迎えた晩餐が行われた。この席上、朴大統領が金載圭に対して、反政府学生らが釜山のアメリカ文化館を占拠した事件について責任を追及すると、車智澈室長も追従して批判を加えてきた。金載圭は晩餐会場から中座して直属部下の朴興柱と朴善浩を呼び、銃声が聞こえたら控え室の大統領府警護員(車智澈の部下)を射殺するよう指示した。
晩餐会場に戻ると、金載圭は車智澈と朴正煕にそれぞれ1発ずつ拳銃を発射した。しかし金載圭の拳銃が故障し、また銃声を電機のショートと勘違いした職員によってブレーカーが落とされたため、室内の電気が消えた。金載圭は晩餐会場を一度出て、銃声とともに警護員らを射殺した朴善浩から拳銃を借りると再び晩餐会場に戻り、車智澈と朴正煕にとどめとして1発ずつ銃撃した。

崔圭夏

第10代大統領 「崔圭夏」
学生デモ等が収まらず、粛軍クーデターを実行。結局収まらず、光州事件発生。8ヶ月で退任。

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