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順をおって見るロックの歴史

まだロックの歴史は100年未満。これからもどんどん進化を続けていくと思うとワクワクします。

更新日: 2017年02月06日

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in-bloomさん

ロック誕生以前

1950年以前はまだロックと言う存在自体はなかったが、ジャズ・ブルースなどのロックが生まれるきっかけとなったブラックミュージックは存在していた。
1903年にアメリカ・ミシシッピ州のデルタ地帯を旅行中だったW.C.ハンディがブルースを知り広めたのが初めて一般に認知されたブルースだと言われており、2003年はブルース生誕100周年を記念してアメリカ合衆国議会によってブルースの年と宣言されている。

時が流れ、1950年頃になるとエレクトリックのバンドによるブルースが誕生する。
デルタ・ブルースを基調とする泥臭いサウンドはシカゴ・ブルースとよばれ、マディー・ウォーターズがその代表格と言われる。

「悪魔に魂を売った」伝説のブルースマン。

ロックの誕生

プレスリー登場
 1954年,テネシー州メンフィスの若きトラック運転手,エルヴィス=アロン=プレスリーが最初のレコードをレコーディングし,1956年にエド=サリヴァン・ショウに出演し,『ハートブレイク・ホテル』を歌ったとき,ロック=アンド=ロールは新しい歩みを始めた。ビル=ヘイリーとは違い,若く,甘いマスクとセクシーな肉体をもった彼は,『ハートブレイク・ホテル』『監獄ロック』などの激しいロック=アンド=ロールや,『ラヴ・ミー・テンダー』などの甘いバラードで,たちまち全米の若者たちの心をとりこにし,またたく間に世界中の若者のスーパーアイドルとなった。こうしてロック=アンド=ロールは,大人たちの眉をひそめさせながらも,確実に“若者の文化”となったのである。(実際,エルヴィスがアメリカのテレビショウ「エド=サリヴァン・ショウ」に出演した時には,テレビ局は非難を恐れて,エロチックにうごめくエルヴィスの下半身を放送しなかった。)

また、同時期にいたロックンローラーとしては映画バック・トゥ・ザ・フューチャーでお馴染みのジョニー・B・グッドを歌ったチャック・ベリーもロックの父として知られています。
実際にはロックを生み出したのはエルヴィスではなくて、チャック・ベリーやリトル・リチャードといった黒人だという意見が一般的です。

ザ・ハイロウズの「青春」で「ジェリーリースタイル」として登場する火の玉ロックで知られるジェリー・リー・ルイス。

ロックの発展期

時期を同じくして、イギリス・リヴァプールでは後にビートルズを結成するジョン・レノンがアメリカで誕生したロックンロールに影響を受け、ビートルズの前身となるバンド「クオリーメン」を結成。
この時期にはバディ・ホリーやリッチー・バレンス、エディ・コクランなどのロックンロールの重要な人物が相次いで亡くなっており、また、先述のチャック・ベリーは黒人差別の影響で服役するなど「ロックの死」などと比喩されるような時期だった。
そのような時期にあって、ロックンロールは商品化され、商業主義のロックンロールが生まれ始めた。
一方ではボブ・ディランを始めとするフォークソングの人気が高まっており、彼はカリスマ性を以って黒人差別や反戦運動などの社会問題をテーマとした作品を発表し続けプロテスト・ソングというジャンルを確立した。

ビートルズの登場・イギリスの侵略

1964年2月,初のアメリカ公演のため,ニューヨークのJFK空港に降り立った4人の若者たちを待っていたものは,1万人近い若者たちの絶叫であった。
 彼らの,(事実上)アメリカでの最初のシングルレコードとなった『抱きしめたい』は,あっという間に50万枚という記録的なセールスを達成し,その年の春には,全米チャートの1位から5位までをビートルズの曲が独占し(1.『キャント・バイ・ミー・ラヴ』/2.『ツイスト・アンド・シャウト』/3.『シー・ラヴズ・ユー』/4.『抱きしめたい』/5.『プリーズ・プリーズ・ミー』),ベスト100の中に14曲を送り込むという,前代未聞の“奇跡”が起こった。彼らの行くところ,“ビートルマニア”と呼ばれる熱狂的なファン現象が巻き起こり,巨大なレコード売り上げ・24時間連続のラジオ放送・5万人規模の野球場コンサート等々,彼らはショウ=ビジネスの常識を次々と塗り替えていった。

ザ=ビートルズ-初めてイギリス出身のロックミュージシャンが,アメリカを征服したのである。
 彼らの演奏する曲は,多くのレノンとマッカートニーのペンによるオリジナル曲を含んでおり,かつてのロック=アンド=ロールのカバーではあっても,まったく新しい曲として仕上げられていた。また,メンバー全員が楽器を演奏しながら歌うというスタイルも斬新であり,彼らの“長髪”やファッションも,世界の若者文化や風俗に革命的な影響を与えた。ここに,ロックはまったく新しい時代を迎えたのである。

ロックが社会運動のシンボルになる

ボブ・ディランは62年のファースト・アルバム「ボブ・ディラン」(アルバム名)では、ほとんどの曲が自作ではない、カバー曲であったが、続く63年の「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」でいよいよその独自の詩世界を打ち出してゆく。そして63年のサード・アルバム「時代は変わる」、64年の「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」の成功によって、ボブ・ディランはフォーク・ファン達から厚い信頼と支持を勝ち取ることになる。
 特にセカンド・アルバムに録音されている「風に吹かれて」や「戦争の親玉」などの歌詞は、反戦や人種差別をモチーフにした歌詞が歌われ、運動家のフォーク支持者たちにスローガン的な曲として扱われる。

アメリカにやって来ていたビートルズは、このような音楽が社会運動と結びついている状況に驚いた。しかも、ビートルズのジョン・レノンはボブ・ディランと話し合ったときに、ディランに「君達の音楽には主張がない」とまで言われてしまっている。以降ビートルズは、音楽的な変化と同時に、詞の内容にも思想的なものが増えていき、その活動内容にも社会運動的なものが増えていくのである。
 その一方でディランもまたビートルズの影響により、それまでアコースティック・ギターだったものをエレキ・ギターに持ち替え、1965年に発表したアルバム「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」はロックサウンドを取り入れたものとなり賛否両論を巻き起こした。そして、同年に開かれたフォ―クフェスティヴァルでディランが大掛かりな機材を持ち込み、大音響でエレキ・ギターを鳴らすや、頑固なフォーク・ファン達からブーイングの嵐が巻き起こるという事件まで発生。ディランは仕方なくステージを降りたのだが、関係者に説得され一人だけで再びステージに戻り、アコースティック一本で「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」という曲を演奏した。これは今や伝説である。

字数制限により、少し改変してあります。

サイケデリックとロックの多様化

1966-1969の時期、その後のロックサウンドを決定付けるギターのフィードバックサウンドやエフェクターの一種であるファズが生まれている。それまでは、真空管アンプによるナチュラルに歪んだ音で演奏されていたものが、よりヘヴィな音で表現可能となった。そこで生まれたジャンルの一つに、クリーム、ジミ・ヘンドリックスに代表される強烈にハードなブルースを演奏するブルースロックがあった。これらはファズより少し遅れて流行したエフェクターであるワウをファズと一緒に使用した。

実験的なサウンド作りという手法は次第に他のアーティストにも波及していった。中でも、音楽によって大麻やヘロインなどといったドラッグで起きるトリップ体験を表現するムーブメントが起こった。その幻惑的なサウンドはサイケデリック・ロックと呼ばれた。ドアーズ、初期ピンク・フロイド、ジェファーソン・エアプレイン、グレイトフル・デッドなどが代表格として知られる。これらもテープエコーやチェンバーなどといったエフェクターが鍵だった。楽器では、シタールを用いることが多かった。
実験性とは別に、他のジャンルの要素を取り込む動きも盛んになった。ブルースの影響を消化したブルース・ロック、カントリーとの合体を試みたカントリー・ロック、ブラス・ロックなどである。

芸術としてのロックが誕生

60年代後期はヒッピー文化華盛りの時代であった。サンフランシスコを聖地とするヒッピー文化は西海岸を中心に世界各地に広がっていった。それはドラッグによる人間の魂の開放、自由と平和を模索する「新しい生き方の実験」の時代であった。
 ちょうど同じ頃、ヒッピー文化の中心とは位置的に対象となる東の大都会、ニューヨークでも、全く新しい「実験」が行われる。ロックの芸術性と表現の可能性への実験である。

「何か新しいことはないかい?」というのが当時の人々のあいさつとなっていたほど、新しいものを求め、つぎつぎと新しいものが生み出された時代であった。そんな時代の大立者として誰もが認めるのはアンディ・ウォーホルであろう。彼はポップ・アートの旗手で、商品として流通していた、ただの洗剤の箱をそっくりそのまま違う材質で作ってみせたり(ブリロの箱)、何種類もあるキャンベルスープの缶を商品棚にあるように100個も並べて描いて、作品化したことで有名だが、その彼がロック界にも関与してきた。ウォーホルがプロデユースしたグループザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの登場だ。芸術としてのロックの可能性がここで明確に提示されたのである。

ウッドストックと夢の終わり

愛と平和と自由と、何か現実を忘れさせてくれる刺激を求めて、アメリカ中の若者が、ミュージシャンが、バンドが、狂ったように西海岸で暴れ回った60年代は、正に若者の時代だった。アメリカの青春だった。「青春」という響きは、美しく、全てを肯定してしまう様な力を持っているが、同時に、儚(はかな)い。「青春時代が夢なんて、後からほのぼの思うもの」と歌ったのは森田公一とトップ・ギャランだが、その時代に生き、その場所にいた全ての若者、ミュージシャンたちは、本気で自分達がアメリカを変え、世界を変える事が出来るし、また、そうなるべきだと思っていたのだ。「今って夢の様な時代だよなぁ、俺たち正に生きてるって感じじゃん?」なんて思いながらヒッピーをやっていた訳がない。

しかし、ありったけの自由と冒険が許された青春時代も、いつかは風に吹かれて飛んで行く。1969年8月15、16、17日の三日間に渡って行われた、史上最大の「愛と平和と自由」のロック・フェスティバル「ウッド・ストック」をピークにその青春の炎は爆発するのだが、これが皮肉な事に、40万人もの観客を動員してしまったことで企業や資本家、レコード会社などに「これは金になる」と気付かせてしまい、そのすぐ後、1970年にウッド・ストック同様「愛と平和と自由」を掲げ、イギリスのワイト島で開かれたロック・フェスティバルでは、ウッド・ストックを上回る60万人もの観衆から、しっかり入場料を取る事になった。(ウッド・ストックは事実上無料だった)

それにより、「ロックは反・商業主義のハズだ!」という幻想から覚めぬ観衆と、ギャラを受け取る出演者との間に摩擦が起こり、「資本主義のブタ」、「そんなに金儲けしたいか」などという罵声のもとに、裏切られたと思った観衆は暴徒と化した。フィールドを仕切る壁をぶち壊し、無秩序状態となった。この瞬間、ラブ&ピースの夢は崩壊した・・・。
 フェスティバルが終わってみると、そこには60万人分のゴミと、クソと、壊された施設の残骸が残されていたと言う。それは目が覚めて、全身から力が抜け、虚脱感と不毛感に襲われた若者の心の中をそのまま映し出している様に思う。ゴミとクソだけではない、それは夢の残骸でもあったのだ。

アメリカの抱えていた諸問題(ヴェトナム戦争、公民権運動、女性解放運動など)は、70年代に入っても、相変わらずデモや行進が行われ、国民の問題意識を刺激していたが、それらがロックと結びつく事は少なくなっていった。ワイト島に象徴される、ラブ&ピースの敗北と馬鹿らしさを知った多くの若者たち、そしてミュージシャンたちは、そんな社会問題を歌ったり聴いたりすることにウンザリしてしまったという面もあるだろう。それに何より、あらゆる流行は去るのだ。ラブ&ピースは流行、熱病、ファッションだった。心の底からそれを信じ、行動に移った若者もいれば、何となく皆について行こうと思いながら「ピース」とか言っていた若者もいただろう。いつの時代にもそういう奴はいるものだ。そして「熱病」から覚めてみれば、ヒッピーをやってドラッグ吸ってた奴が、青春に見切りをつけ、就職活動をしたりする。それが現実なのだ。そうやって人は成長して行く。青春は終わった。

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