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近代日本の対外拡張の傍らで起こっていたこと

明治維新によって劇的な改革を遂げた日本だが、その後の対外拡張の過程では多くの苦闘や今日に至るまでの負の遺産を積み上げることになる。近代史の、やや目立たない部分に光を当て、今の日本に残された遺恨について考えてみよう。もちろん、歴史ゆえに様々な事実認識がある

更新日: 2017年09月10日

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▼沖縄の併合は、すでに侵略戦争の始まりだった

琉球の士族たちの中には、清国に渡り、救援を求める者が多数いた。清からはこれを受け、抗議が続く。そこで日本政府は、清国の要求にある程度応えて、その代わり欧米との条約改正を有利にしようと考えた。それが、宮古八重山を清に渡し、清がそこで尚氏を琉球国王にするという考えだった。結局、この宮古・八重山を沖縄県から分割する案は交渉が決裂する。

1879年(明治12年)に、軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入した。国王(藩主)だった尚泰は侯爵に叙せられ、東京への定住を命ぜられた。その前からの騒動で、清は日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして琉球の領有権を主張していた。日本は「万国公法」にある近代的な「国民国家」理論を適用、その正当化のため、台湾原住民による琉球人殺害の報復として1874年に台湾出兵を行なっていた

西郷が唱えた征韓論とは、参議・西郷隆盛が自ら大使となって外交で解決する西郷案のことを指す。西郷が考えた朝鮮との交渉とは、朝鮮側が納得する古式に則った烏帽子直垂の武士の正装。使節は軍艦ではなく商船で渡海するものであったと言われている。この構想に武力はみられない。西郷は武人であったが、交渉を重んじ、朝鮮とは対等な関係での交渉を模索したとも考えられている。植民地化や併合などの強引な荒療治は、実は、ロシア南下政策への“防波堤”を望んだ欧米列強の思惑に明治政府が乗せられただけだとも解釈できる

▼実に「不思議だった」この時期での朝鮮侵略

西郷隆盛に代表される対朝鮮強硬派が失墜した「明治六年の政変」後、わずか二年後に、日本は朝鮮を開国させてしまう(1876年)。しかも、その朝鮮開国を、清国は承認していた。それにも関わらず、朝鮮独立をめぐって日清戦争が始まってしまう(1894年)。これらの「不思議」を紐解く鍵は、実はアメリカがもっていた。これが本書のキーワードだった。

日韓協約:日露戦争中から韓国併合まで,日本が朝鮮を植民地化するため締結した三次にわたる協約

(※写真は『日韓協約と韓国併合』海野福寿編)
(1)第一次。1904年(明治37)8月締結。韓国(大韓帝国)政府は外交・財政に日本政府推薦の顧問を招聘することとし,外交上の重要案件は事前に日本政府と協議のうえ決定することを義務づけられた。(2)第二次。1905年11月締結。日本は韓国政府のすべての外交権を奪い,韓国統監府の下においた。乙巳(いつし)保護条約。(3)第三次。1907年7月締結。日本は内政に関する支配権を奪い,司法・警察権も掌握

(※クリック20世紀より)
【以下、Wikipedia】日清戦争直後の朝鮮半島では、大日本帝国を後ろ盾とする改革派の勢いが強まったものの、その後大日本帝国が西欧列強による三国干渉に屈服したことで、朝鮮王室は帝政ロシアに接近した。一方、高宗は1897年に皇帝に即位し、諸外国の干渉に抵抗。国号を大韓帝国と改めた。その後、上からの近代化改革を図ろうとするが、日本の保護国強化にともない潰えた

朝鮮での義兵闘争は徹底的に鎮圧され、その後の朝鮮は日本の兵站基地として利用されるようになる

出典『知識ゼロからの日本・中国・朝鮮近現代史』青木裕司著

日韓併合寸前には全土で3000回以上の交戦が展開され、韓国側の死者は1.7万人にのぼったとされる。併合後は、米の増産などが実現するも、かなりの部分が日本に移出されている。その他、朝鮮の安価な労働力に注目が集まり、炭鉱や鉱山への移入が進められた。これは徐々に強制的な連行に変わったと思われる

「強制連行は必ずしも暴力を意味せず、創氏改名も朝鮮の人々に受容された結果」という間違った理解

出典『知識ゼロからの日本・中国・朝鮮近現代史』青木裕司著

朝鮮人労働力移送を、暴力をともなう強制連行ではないと解釈する向きがある。もし、朝鮮の人々に対して有形無形の圧力が存在し、実質拒否できなかったという事実があったなら、それを「強制連行ではない」と強弁するのは詭弁である。また、創氏改名も、朝鮮の人々が生きていくために止むを得ず受け入れたとしたら、真実はまったく異なってくる

従軍慰安婦の「強制連行の証拠がない」とするのは、当時の朝鮮・日本の強制関係を無視した意見

出典『知識ゼロからの日本・中国・朝鮮近現代史』青木裕司著

軍を悩ませた性病の蔓延や強姦事件の多発などに対し、軍は慰安所を設置した。しかし、強制連行についての公文書が見つかっていないという。「強引に拉致してこい」などと書かせることはないだろうし、あのナチスでさえ、ユダヤ人をガス室で抹殺せよという公文書は見つかっていない

▼台湾の統治は日本最初の植民地だった

【番組内容文字おこし】

「台湾の統治に失敗すれば、日の丸の御旗の光が失墜する(伊藤博文)」

「台湾人の抵抗は激しさを増し、戦いによって、台湾の宝といわれる「樟脳」(世界シェアの七割、新素材セルロイドの材料)が被害を受ける」「樟脳の産地が、日本の統治によって永遠に廃墟になってしまった(英国領事館の報告)」「後藤新平は、統治の基礎を固め(厳しい刑罰と協力者の取り込み)ながら、台湾の宝である樟脳産業の立て直しに着手します。生産現場を管理し、労働者への指導を徹底」「後藤が赴任した二年後には、樟脳の事業は赤字を解消、現在の価値で、年間およそ100億円の収入を上げるようになる」

「日英博覧会:日本は、会場内に台湾の先住民族パイワン族の人々の家を作り、その暮らしぶりを見せ物とした。当時、西洋列強には、文明化の使命という考え方があり、植民地の野蛮な劣った人間を文明化させる使命があると信じていた。それを宣伝する場が人間動物園だった」

「台湾の同化政策で、台湾人は日本人と同じ学校に通うようになった」「日本は、既に同化が進んだ沖縄の人々を台湾に送り込み、指導に当たらせていた」「1937年、日中戦争が勃発。当時台湾には、およそ500万人の漢民族がいた。(皇民化を急ぎ)学校や新聞などで、中国語を禁止し、日本語の使用を強要」

「1941年12月、太平洋戦争が勃発。日本は、戦争の目的を、欧米列強からアジアの植民地を解放することである、とした」「同期間中、およそ21万の台湾人が、日本軍に入隊、中国や南方戦線へと送られた」

「支那」にはもともと侮辱的意味合いはない。しかし、相手が嫌がっている呼称は避けるべきでは

出典『知識ゼロからの日本・中国・朝鮮近現代史』青木裕司著

支那は「チャンコロ」や「チャンチャン坊主」といった表現とともに侮辱のニュアンスを持つようになる。当時、中国は、西洋の圧迫にあえぎながら、尊大さのあまり近代化に目を向けることもなく、図体ばかり大きな遅れた老大国というイメージが定着してしまう

▼シベリア出兵という、日本人を大量に死なせた暴挙

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