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【閲覧注意】死に方が悲惨な有名人

衣装ドレスの裾がセリのシャフトに巻き込まれたため、セリ台のワクの鉄製ベルトと舞台を支える鉄製アングルの支柱の間に足を挟まれたまま引きずり込まれ・・・・・(香月弘美より)※グロ注意

更新日: 2017年09月28日

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kon40さん

尾崎豊

1992年(平成4年)4月25日、早朝の足立区千住河原町の民家の軒先に全裸で傷だらけで
倒れていたところを住人に発見され、通報で病院に運び込まれる。
体が傷だらけだったが診察した医師は深酒のみという診断で尾崎は妻とともに自宅マンションに戻る。
しかし、午後になり呼吸が止まっているのに気がついた家族が救急車を通報したが、
搬送先の日本医科大学付属病院で死亡した。

他殺の疑惑

尾崎の遺体には暴行を受けたような傷やあざもあり、亡くなった日の状況が
きわめて不自然であることから、他殺とする説もある。
しかし警察は、状況捜査や司法解剖を行った結果から「事件性なし」として調査を終結している。
尾崎豊が亡くなってから約2年後に、10万人近くの尾崎ファンの署名を集めた
再捜査嘆願書が警察に提出されたが、受理されなかった。

7年後の1999年には写真週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、
当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さが深まった。
だが、検死をした支倉逸人の著書によれば、擦過傷と打撲傷をじっくり調べた結果、
他殺をうかがわせるようなものはなかったとの記述がある。
またそれを裏付ける、転倒したり暴れて転げ回っていたという証言がある。
だが、はっきりしたことがわからないため、今までに尾崎の生涯を描いた
多数の漫画作品やテレビ番組においても、尾崎が死んだ様子は全く触れられていない。

梶原一騎の娘(白暁燕)※閲覧注意

梶原 一騎(かじわら いっき、1936年9月4日 - 1987年1月21日)は、日本の漫画原作者、小説家、映画プロデューサー。本名は、高森朝樹(たかもり あさき)。高森朝雄(たかもり あさお)の筆名も使用した。格闘技やスポーツを題材に、男の闘う姿を豪快に、ときには繊細に描き出し、話題作を次々と生み出した。
1966年から『週刊少年マガジン』に連載された漫画『巨人の星』の原作者として名声を上げ、以後『あしたのジョー』(高森朝雄名義)、『タイガーマスク』など、所謂「スポ根もの」分野を確立した功績をはじめ、多くの劇画・漫画作品の原作者として活躍した。

白冰冰は台湾基隆市の貧しい家庭に生まれ、十代の頃に学校を中退する。1973年に台湾で開かれた歌唱大会で優勝したのをきっかけに台湾でのエンターテーメント界で活躍し始める。1975年には歌と演技を学ぶため日本に渡り、漫画原作者の梶原一騎と結婚する。1980年には娘となる白暁燕を生むが、梶原との結婚生活は長く続かず家庭内暴力などを理由に1981年に離婚する。その後台湾に帰国してから活動を続け徐々に人気を得て1980年代の半ばには台湾でもっとも知られる歌手の1人となる。

白暁燕(白曉燕、パイ・シャオイェン、1980年6月23日-1997年4月18日~4月19日)は、台湾の女優、歌手白冰冰(パイ・ピンピン)の一人娘として、日本人の漫画原作者・梶原一騎との間に台湾で生まれた。冰冰は暁燕が生まれる前に梶原と別居し、帰国したため、暁燕は冰冰の手元で育てられた。
成長するにしたがって、有名人である母親とともにテレビ出演する機会も増えた。しかし、儒教的世界では父親が日本人であることは日系と強く意識されるため、冰冰は娘をことさら台湾の普通の子女として育てようとし、ボディーガードなどは一切付けず、一般交通機関で高校に通学させていた[要出典]。これが裏目に出て、日系を嫌悪する外省人(在台中国人)系のマフィアにとって、格好の標的となった。1997年4月14日に誘拐され、その後、無残な虐待のすえ惨殺された。

在学中の暁燕は、通学途中に誘拐された。
犯人グループは、直後から暴行を加えるとともに、左手小指を切断した。
さらに、母冰冰の元に暁燕の半裸の写真と、彼女の切断された小指を送りつけ、
500万アメリカ合衆国ドルの身代金を要求した。

冰冰はなんとか身代金全額は揃えたが、行政院長連戦の差し金で警察からマスコミに情報が漏れ、
中華日報と大成報が報道したため、引き渡し現場に記者が殺到する事態となり、
犯人グループは身代金受け取りを断念する。

現金が渡れば家に帰れると信じていた暁燕は、戻ってきたグループの一味から
身代金受け渡しの失敗を聞いて泣き叫んだが、激昂した犯人グループは、
腹いせにさらに凄惨な集団暴行を加えて暁燕を惨殺し、
遺体の手足を角材で縛ったうえ、重しをつけて台北近郊のドブ川に遺棄した。

4月25日に犯人グループのアジトを急襲し4人が逮捕されたが、
3人の主犯格(林春生・高天民・陳進興)を捕り逃がしてしまった。
4月28日、暁燕の原形を止めぬほどにボロボロになった無残な全裸の遺体が発見された。
発見者は、最初はブタの死骸と思ったという。

直接の死因は窒息だったが、暴行による打撲で肝臓が破裂しており、
その内出血で腹腔は大きく膨張し、肋骨もほとんど折れており、両手両足の爪も全て剥がされていた。
顔も髪の毛はまばらにされ、両目はえぐり取られ、舌は引き伸ばされ、
両耳の鼓膜は爆竹で破られ、前歯は上下三本しか残っていなかった。

さらに、遺体発見時の写真を一部のメディアが掲載したため、マスコミへの批判が高まり、
白母娘の住んでいた家の付近に、周辺の住民が「記者有罪」と書いた抗議の垂れ幕を下げた。

暁燕の葬儀では、顔にかつらと生前の顔を模した面を着けて納棺された。

香月弘美

香月弘美(かつき ひろみ、本名:小笠原 弘恵、1936年8月21日 - 1958年4月1日)は、宝塚歌劇団月組の元タカラジェンヌ(娘役・41期生)。神奈川県藤沢市片瀬出身。湘南白百合学園小学部、中学部の同級生で中学卒業後すぐ宝塚歌劇団に入った松島三那子の影響で、湘南白百合学園高等学校中退で宝塚音楽学校入学。愛称は「ヒロエちゃん」。初舞台は1954年(昭和29年)4月の「宝塚春のをどり」。

事故概要 (中略)

松島はトランプの国の場が終わった後、早変わりですぐ次の役に扮しなければならなかった。
そのため、姿が客席から見えなくなるとすぐに体をふりほどき、
相手役に「オーキニ」と言った後背を向け、セリが下がりきるのを待たず
奈落に飛び降りて早変わり室に駆け込んでいた。

この日も飛び降りて三歩ぐらい走った時、「ヤメテー」という叫びがしたのと同時に
バリバリという音、何かが飛び散る音がした。
驚いて振り返ると、蝋細工の人形のように無表情な香月の顔と、
衣装ドレスの赤い生地がセリのシャフトにからみついて回っているのがみえた。
この間一秒程度であった。

松島の衣装の背中には、血しぶきがかかっていた。香月の衣装ドレスには
すそを広げるための幅2センチ、厚さ1ミリのスチールベルトが腰まわり、ひざ、すその
三カ所にそれぞれ直径約60センチ、70センチ、1メートルの輪になって取り付けられていた。

衣装ドレスの裾がセリのシャフトに巻き込まれたため、セリ台のワクの鉄製ベルトと
舞台を支える鉄製アングルの支柱の間に足を挟まれたまま引きずり込まれ、
腰まわりのスチールベルトが香月の胴を締めつけ、
身体が真っ二つに切断され即死してしまったのである。(朝日新聞1958年4月2日)
しかし香月の切断部は衣装ドレスで覆われていたため、
松島は香月が死亡したことを認識できなかった。

動転した松島は、「トメテートメテー」と怒鳴りながら、早替わり場にかけつけた。
次の場もあるので、とりあえず衣装をつけたが、
その時香月が死亡したことを聞き、松島はその後の記憶を失った。

後に松島が周囲にいた者に聞いたところでは、その時の彼女は泣きながら香月の名を大声で呼んだり
「私が代わりに死ねばよかった」と叫んだりしながら暴れるなど、半狂乱だったという
(一部に「松島は鮮血に染まりながらゆっくりと香月の胴体が切断されてゆく様を、
ただ黙って見ていることしかできなかった」とする記述があるが、松島の回想に拠れば事実ではない。

菊容子

6・7歳の小学生の頃から少女雑誌の表紙モデルで芸能キャリアをスタートし、中学生時代にNHK主催の新人オーディションで2位合格となり、後に女優業に転向する。
1967年、『でっかい青春』第26話から、レギュラーとなり、女生徒・丸山しぐれ役を演じる。
1971年、朝日放送系で放映したドラマ『好き! すき!! 魔女先生』のヒロイン・月ひかる役を務め、その他ドラマ・映画・舞台を中心に活躍した。

1975年4月29日、新宿区諏訪町の自宅マンションで交際していた23歳の元俳優の男性(のち自殺未遂)に
別れ話のもつれから首を電話線のコードで絞められて殺害される。24歳没

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このまとめへのコメント1

  • ginkanさん|2013.08.19

    保倉幸恵の画像って合ってるの?

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