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赤線と吉原

戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、これが赤線の語源であるという

更新日: 2016年05月15日

twcritiqueさん

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赤線(あかせん)は、GHQによる公娼廃止指令(1946年)から、売春防止法の施行(1958年)までの間に、半ば公認で売春が行われていた日本の地域である。赤線区域、赤線地帯などとも。

戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、これが赤線の語源であるという[1]。終戦後のカストリ雑誌などでは「特飲街」(特殊飲食店街の略)という表現が用いられており、「赤線」という言葉が一般的になったのは、区域外への進出や人身売買事件などが大きな問題になった1950年代以降である。

東京では吉原、新宿二丁目などの貸座敷(遊廓)や、玉の井(東京都墨田区東向島)、鳩の街(東京都墨田区東向島)などの銘酒屋の看板を変え、飲食店などとして風俗営業許可を取ることになり、娼妓・私娼は女給になった(東京はカフェー、大阪では料亭など、地域によって異なる)。

銘酒屋(めいしゅや)は、銘酒を売るという看板をあげ、飲み屋を装いながら、ひそかに私娼を抱えて売春した店。明治時代から大正時代、東京市を中心にみられた。東京の下町では、「めいしや」 と発音する。

譲治は一度はナオミを家から追い出すが、その魔性の魅力に勝てず「愛の奴隷」となりさがるというストーリーである。このナオミの生まれが、千束町の十二階下の魔窟といわれたところで、実家は銘酒屋という淫売屋であった

戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、これが赤線の語源であるという[1]。終戦後のカストリ雑誌などでは「特飲街」(特殊飲食店街の略)という表現が用いられており、「赤線」という言葉が一般的になったのは、区域外への進出や人身売買事件などが大きな問題になった1950年代以降である。

娼婦(しょうふ、英: Prostitute)は、性的サービスを提供することによって金銭を得る女性を指す。同義語は「売春婦」、「淫売婦」、「パンパン」など多数。古い文体では醜業婦。また街頭に立つ娼婦を指して「街娼」や「たちんぼ」とも。侮蔑的な意味合いを含んだ類語に「淫売」などがある。「身売り」と言うときに示唆する職業の女性の総称でもある。

売春婦は、一説には人類史上最古の職業といわれ、古代世界では神の恩寵を性交を通して与える者「神聖娼婦」として聖職と捉えられることもあった。また、世界各国の軍隊では兵士の強姦事件や性病、機密漏洩の防止のために売春婦を多数雇い入れる例がある。

幕末から明治中期に浅草、芝、両国などにおいて、矢場(楊弓店)で接客した矢場女(やばおんな。矢取り女とも[1]。)が売春も行い私娼窟と化した[2]。
それらの矢場が廃れた明治20年頃から、銘酒の酌売を看板にして5、6本のびんを縁起棚に飾り、その裏では数名の私娼を抱える店が流行しはじめた。明治25、26年頃から銘酒屋と書いた軒燈を掲げるようになった。
日清戦争後から日露戦争の頃にかけて、浅草公園五区、六区、千束町に発展し、明治末から大正初期がその全盛期であった。 大正年間、官の黙許のもとに公然と営業した。大正6、7年、一時、警視庁の撲滅方針によってほとんど撲滅されたかにみえたが、まもなく看板をはずして営業し、また表向きは造花屋、新聞縦覧所として営業し、客があれば他に案内して売春するなどして大正10年頃再び隆盛をみた。
関東大震災後、浅草地区での警視庁の取締りの強化のため、本拠は亀戸、玉の井に移った。
昭和20年3月10日、東京大空襲ですべて焼失[3][4]。亀戸は目抜き通り北側の指定地に移転、玉の井は改正道路(現水戸街道)沿いの寺島町5丁目、6丁目(現東向島5丁目及び6丁目の一部)から寺島町7丁目(現墨田3丁目の一部)の隅田町寄りに移転、一部は鳩の街に移転して戦後の赤線時代を迎える。 売春防止法の施行により昭和33年3月31日を最終日に営業を終了、消滅した。鳩の街では最終日に「蛍の光」を流して別れを惜しんだと云う
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%98%E9%85%92%E5%B1%8B

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