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【閲覧注意】世界カルト偉人伝(カルト教団・カルト宗教・カルト集団)【オカルト】

精神世界。何かを知ろうとすると必ず出くわす人達。Wikipediaによるカルト調査。詳しく知りたい方はWikipediaのリンクを辿り参考文献を読みあさりましょう。(※.宗教活動または宗教団体への勧誘行為ではありません)

更新日: 2017年01月09日

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話題のまとめ

マンソン・ファミリー

1960年代末から1970年代の初めにかけて、カリフォルニア州にて「ファミリー(マンソン・ファミリー)」の名で知られる疑似生活共同体を率いて集団生活をしていた。

家出した少女を集めて「ファミリー」として集団生活を始める。彼自身の風貌が当時の流行だったヒッピーと重なったこともあり、LSDを用いて少女達を洗脳し男性を誘惑させ信者にさせた。マンソンは『聖書』を独自に解釈し、女性は罪人であると信じ込んでいた。数件の残忍な殺人事件を計画し、ファミリーのメンバーに実行を命じた。マンソンを象徴する有名な事件として、1969年8月9日、ロマン・ポランスキーの妻で当時妊娠8ヶ月だった女優のシャロン・テートら5人の無差別殺害がある。

マンソンは自ら殺害を実行することはなく、テート・ラ・ビアンカ殺害事件に関しても実行犯は3人の女性信者で全員が終身刑となり現在も服役中であるが、たびたび仮釈放申請が出され、そのたびにマスコミの関心を集めている。

人民寺院

ジム・ジョーンズ(Jim Jones、本名ジェームス・ウォーレン・ジョーンズ、James Warren Jones、1931年5月13日 - 1978年11月18日)とはアメリカ出身のキリスト教系のカルト教団、人民寺院の教祖。

1963年にカリフォルニア州を本拠地とする人民寺院(People's Temple)を結成。晩年は強迫観念が強くなり、1974年、追われるように南米ガイアナの密林奥地に本拠地を移し、自らの名をとってジョーンズタウンと名付け、自分の妻と養子(黒人と朝鮮人)、信者らと共に入植。信者たちに強制労働が行われているとの噂が立ち、1978年11月18日アメリカ下院議員レオ・ライアンら5人がジョーンズタウンに調査に訪れた。調査を終え帰る途上、人民寺院の信者の一隊が議員一行を襲撃して殺害。この直後ジョーンズは信者らに死を命じる。大きな鍋に入ったシアン化合物入りの飲料水を摂取する事により、ジョーンズの妻子を含め大多数の信者が集団自殺を遂げた。ジョーンズ自身もこめかみに銃弾を受け死亡した(但し、自殺か他殺かは不明)。死者914人を数えた。

神智学

ブラヴァツキー夫人(マダム・ブラヴァツキー 1831年8月12日 - 1891年5月8日)は、神智学を創唱した人物で、神智学協会の設立者。

本名はエレナ・ペトロヴナ・ブラヴァツキー(Eelena Petrovna Blavatsky、Елена Блаватская)。姓はロシア語では女性形でブラヴァツカヤとなる。ブラバッキーと誤表記されることもある。

神智学はキリスト教、仏教、ヒンドゥー教、古代エジプトの宗教をはじめ、さまざまな宗教や神秘主義思想を折衷したものである。この神智学は、多くの芸術家たちにインスピレーションを与えたことが知られている。例えば、ロシアの作曲家スクリャービンも傾倒したし、イェイツやカンディンスキーにも影響を与えた。

ロシア首相を務めたセルゲイ・ヴィッテ伯爵は従弟である(2人の共通の祖母が、名門ドルゴルーコフ家の公女にして博物学者のエレナ・パヴロヴナ・ドルゴルーコヴァ)。

大本

出口 王仁三郎(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日(明治4年7月12日) - 1948年(昭和23年)1月19日)は、新宗教「大本」の二大教祖の一人。肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」。もう一人の教祖は出口なお(肩書きは「開祖」)。

出口王仁三郎は、大本において聖師と呼ばれる。強烈な個性と魅力とカリスマを持ち、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させた。その一方で実像をとらえることが難しく、奔放な言動により敵対者から多くの非難を浴びる。その評価は現在でも定まっていない。国家神道の権威と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として大日本帝国政府の徹底的な弾圧を受け大東亜戦争直前に壊滅、王仁三郎も7年近く拘束された。太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも、まもなく病により死去した。彼の思想と布教方法は戦後の新興宗教に大きな影響を与えた。

大地はえぬきの極典

大石凝 真素美(おおいしごり ますみ、1832年 - 1913年4月11日)は、日本の国学者。

遠祖は大伴氏という。壬申の乱の後継者として、望月を姓として伊賀、近江にすまったという。父は登、医を業として、かたわら多賀神社の神札をくばっていた。真素美の幼名は春雄、元服して大輔広矛。

22歳のとき江戸にいたが、アメリカの艦船が浦賀に来て、これに憤慨、「我国は神国なり。今は神知に俟つ外なし、神風を促す底の大神人を求むるに如かず」と東奔西走し、大人物をもとめ、各地の志士とまじわった。美濃の山本秀道の教えを聞いて感激し、秀道に師事して古典を研究し、奥義に達したという。

明治3年(1870年)、「有名無実の神道を廃せよ」とさけび、激越な論調ゆえにとらえられ、投獄された。出所、帰郷し、明治6年(1873年)9月、大祖の姓に復し、大石凝真素美と改名した。

明治11年(1878年)、秀道宅で天津金木学、日本言霊学を大成した。神に通じて霊に感じて、明治24年(1891年)の国会議事堂焼失、明治31年(1898年)の神宮正殿焼失を予言、的中したという。明治40年(1907年)から名古屋の水野満年のもとで皇学を講じてまた執筆にしたがった。

太陽寺院

太陽寺院(たいようじいん、英: The Solar Temple、仏: Ordre du Temple Solaire)は、ニューエイジの神秘主義と環境保護を主張するカルト教団。正式名称は太陽伝説国際騎士団。1994年10月にスイスとカナダで集団自殺したとされ、53人(うち子供16人)が遺体で発見された。教祖を含め信者は高学歴で社会的地位のある裕福な白人が多かったため、全世界に衝撃を与えた。

もともと教祖のリュック・ジュレは、テンプル騎士団や神秘主義に影響を受けたフランスの宗教団体に所属していたが、1980年代なかばに少数の信者を引き連れてスイスに移り独立した。また、後にNo.2となる元実業家が率いる別のカルトも吸収して、信者に終末思想を説いた。そして裕福で教養のある人々を勧誘し、1986年にはカナダ・ケベック州に本拠地を移した。ここでも企業や小さな市や町で講演して信者を増やした。

しかし、1993年に銃の不法所持で強制捜査を受け、カナダを離れスイスに戻った。このころから財政問題の悪化が表面化しはじめ、この世の終わりを口にするようになった。幹部たちは1994年9月には決断していたらしい。

10月5日、スイス・フリブール州のシェリー村の農家で23人が銃殺された。遺体の半分はビニール袋をかぶっていた。ヴァレー州のグランジュ・シュル・サルヴァン村でも25人が薬物を投与され焼死した(このとき教祖とNo.2も死亡した)。おなじく遺体はビニール袋をかぶっていた。そしてカナダの山小屋で5人の死体が発見された。

日本のピラミッド提唱者

酒井 勝軍(さかい かつとき、1874年3月15日 - 1940年7月6日)は独自のキリスト教伝道者、日ユ同祖論者、オカルティスト、「日本のピラミッド」発見者である。

1934年(昭和9年)4月24日、酒井は広島県庄原市を府中町専売出張所所長である堀準衛ーらとともに調査し葦嶽山をピラミッドであると断定した。5月30日に中国新聞記者らに公開調査し、全国の新聞に報じられ、広島県の山村の村が一躍脚光を浴び、続々と見物客が押し寄せることになる。(鳥谷幡山が1934年(昭和9年)10月、青森県戸来村(現新郷村)において、ピラミッド大石神を「発見」する。1935年(昭和10年)8月初、同ピラミッドを訪問した、竹内巨麿は塚を発見したとし後にキリストの墓とした。[6])9月11日の講演の後に飛騨高山でピラミッド上野平を「発見」する。同年、『太古日本のピラミッド』(国教宣明団)出版。その後、続々と「日本のピラミッド」は「発見」され、現在に至っている。
酒井が提唱する日本のピラミッドとは、日本のものがエジプトをはじめ海外のように人工的に造られた建造物ではなく、自然の地形を利用しながら半人工的に石や土を積み上げて造られたものだという。そして数千年という長い年月の中で日本の風土環境の中、自然の山のようになってしまった。これは、古墳が地上から見たのでは自然の山々と区別がつかないのと同じであると唱えている。

オカルト雑誌「ムー」創刊にも参画し、1980年代のオカルトブームに大きな役割を果たした武田崇元は酒井の著作に大きな影響を受け、彼の発行していた「神秘之日本」を復刻している。さらにオウム真理教の麻原彰晃は「ムー」1985年(昭和60年)11月号において後に教団内で女帝と呼ばれる石井久子を伴い酒井勝軍縁の東北地方まで旅して酒井の著作の中に登場してくる霊石「ヒヒイロカネ」を生前の酒井と面識のあったという老人より譲り受けたと記述している。

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