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知ってるようで知らない”武田信玄の謎”

知ってるようで知らない”武田信玄の謎”をまとめてみました。

更新日: 2013年01月04日

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yosisanさん

武田騎馬隊・肖像画・死因・上洛戦など、武田信玄の謎

戦国最強といわれる甲斐の戦国大名。精強な騎馬軍団を率い、天下を狙った。

その1 肖像画の謎

その2 武田騎馬軍団の謎

武田軍の中で、騎馬隊の割合というのは意外に少ない。

内藤昌豊・山県昌景・馬場信房など、騎馬隊を多く割り当てられた者でさえ、その数はわずかに三百騎・二百騎であり、少ない者になると、十五騎・十騎などである。戦の規模にもよるであろうが、これだけの数で敵陣に突撃したり、敵を薙ぎ倒すなどのことができたのだろうか?

当時の日本馬というのは、サラブレッドなどの巨大な馬ではなく、今でいうポニーのような馬である。

ポニーのような小柄な馬が、はたして総重量100キロを超える武将(本人の体重以外に、鎧兜などを合わせると100キロを超える)を乗せ、戦場を激しく駆け回ることができたのだろうか?

そもそも明治以前の日本で、全兵士が騎馬隊で構成される軍隊(モンゴル軍などの)はなかった。良質な馬の産地である甲斐の国と孫子さながらの疾風怒濤の戦いぶりから、騎馬軍団がクローズアップされ、有名になった可能性が高い。武田軍の主力は、織田・上杉などの諸国と同様に”徒歩の足軽”である。

その3 上洛戦の謎

信長包囲網は完成しており、足利義昭よりの要請をうけた事から、上洛する事が目的の軍事行動だった(上洛説)

信長を足止めしてる間に、遠江・三河(徳川)を叩くための軍事行動だった(遠江・三河侵攻説)

遠江・三河侵攻説をとるならば、その目的は徳川の滅亡である。三方ヶ原合戦後に、家康の浜松城は落とそうと思えば落とす事が可能で、徳川を滅亡させる事は出来たはずなので、遠江・三河侵攻説はあてはまらない。守りの堅い浜松城による武田軍の消耗を恐れた信玄の真意は遠江・三河制圧ではなく、上洛にあったと思われる。

その4 死因の謎

侍医の板坂法印には「膈の病かもしれない」と言われていた(病死説)

山鹿素行によって書かれた『武家事記』には、信玄は元々肺結核の病があり、それが再発したとの記述がある(病死説)

野田城攻めの際、村松芳休という笛の名手の音色に聞き入っていたところを狙撃された(暗殺説)

その5 遺言の謎

「三年秘匿」(我が死を3年の間、秘密にせよ)

自分の跡目は孫の信勝で、勝頼は信勝が16歳になるまでの代理

「源四郎。明日は瀬田に我が武田の旗を立てよ」(山県昌景に対して)

名将・信玄の遺言にしては、多くの混乱が見られる。「三年秘匿」と山県への遺言は明らかに矛盾する遺言である。また、勝頼への遺言もこれでは勝頼の家臣団への立場がない内容となっている。恐らく意識が朦朧とする中で、希望や心配事が浮かびあがり、多数の遺言を生んだと考えられる。

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