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哲学者 西田幾多郎のことば

日本を代表する哲学者・西田幾多郎(にしだ きたろう)の言葉のまとめです。

更新日: 2017年09月22日

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kitarofanさん

西田幾多郎(1870年6月17日 - 1945年6月7日)は、日本を代表する哲学者。京都大学名誉教授。
 
西田幾多郎は京都学派の創始者として、九鬼周造、三木清、田辺元、和辻哲郎、西谷啓治、久松真一、上田閑照らの哲学者たちに大きな影響を与えた。

西田幾多郎はどんな人?

西田幾多郎(にしだきたろう)は明治3年(1870年)5月19日、
石川県宇ノ気町森(現在の石川県かほく市森)に、
西田得登(やすのり)と寅三(とさ)の長男として生を受けました。

西田家は江戸時代には大庄屋を務めたこともある裕福な家柄でしたが、
彼の前半生は父の事業の失敗による一家の破産、姉・弟の死、
父との不仲に端を発する妻との離縁、長男と娘二人の死、
学歴による差別的待遇を受けるなど、多くの哀しみと困難のあるものでした。

やがて彼は、同郷でありその生涯の親友である鈴木大拙の影響によって禅を学ぶようになり、
その参禅の経験から「日本仏教思想と近代西洋哲学の融合」という着想を得て
禅仏教の思惟様式を哲学的・論理的に構造化することを模索し始めます。

壮年に差し掛かってからの西田幾多郎は、学習院教授、真宗大谷大学講師、
京都帝国大学文科大学教授と、その在職校を転々としてゆく日々の中、
文学をはじめ、数学、物理学、心理学、生物学などの幅広い学問に親しみ、
独自の見識を培いつつ、自身の哲学を洗練していくことに没頭します。

そして、そのような彼の努力は後半生に結実することになります。
明治44年(1911年)に弘道館から出版された「善の研究」を皮切りに、
西田幾多郎は「場所」・「行為的直観」・「絶対矛盾的自己同一」をはじめとした
数多くの論文を発表し続け、日本思想史上にまったく類のない
非常に独創的な哲学体系を打ち立てることになります。

今日に於いても彼の哲学体系は「西田哲学」と呼ばれていますが、
体系にその名が冠されるのは日本の哲学者の中では唯一と言えます。

「西田哲学」とは一体どのようなもの?

西田幾多郎という人物は、伝記的には人一倍幸薄い生涯を送った人としても知られています。
しかし、それでもその一生を通して一人の哲学者であり続けた彼は、次の言葉を遺しています。
「哲学の動機は 『驚き』ではなくして、深い人生の悲哀でなければならないーーー」

西田幾多郎の哲学は、ある一面では、「苦悩の人生」からの解放を求め続けた
彼の内心の悲痛な叫びを反映した「救いの哲学」と言えるのかもしれません。

その人生において、様々な困難や幾多の逆境にさらされ続けながらも、
それでも最後の瞬間まで「己の存在の意義」を自身に問い続けた西田幾多郎の言葉は、
「自分らしく生きたい」と願う全ての人たちの心に、時空を超えて力強く語りかけます。
そして、希望にあふれる「善き生き方の可能性」を、時に厳しく、時に暖かく示すのです。

それでは西田幾多郎のことばを紹介していきます!

思惟は単に個人的意識の上の事実ではなくして
客観的意味を有っている、
思惟の本領とする所は真理を現すにあるのである、

〜【善の研究】 第一編 第二章 「思惟」より〜

「思惟する」ということ、つまり「人の想像すること」というのは、
本来、ただ単にその人の意識の中で完結するだけに留まらない、
人間の生きる「現実」に適応されるべき「客観的な意味」を持っています。

「思惟」という概念の持つ「本領」、つまりその「究極の目的」とは、
人間の生きる「現実」の中に隠された「真理」を審(つまび)らかにし、
それを人生において個性的に表現していくというところにあります。

何かに対する着想、「イメージ」を持つこと。
それは、「真理」という名のゴールへ向かう、
一つのスタートラインに立つことを意味します。
その人がその人らしく生きるための第一歩とは、
実にこの「思惟すること」から始まるのです。

元来我々の欲求は我々に与えられた者であって、
自由にこれを生ずることはできない。
ただ或与えられた最深の動機に従うて働いた時には、
自己が能動であって自由であったと感ぜられるのである、
これに反し、かかる動機に反して働いた時は強迫を感ずるのである、
これが自由の真意義である。

〜【善の研究】 第一編 第三章 「意志」より〜

西田幾多郎は、「真の意味での自由」について、概略次のように定義しています。
即ち「自分の最も根底にある欲求に従って、持てる能力を十分に発揮して生きること」です。
人間が自由である為には、こうした意味で「自分らしく生きる」ということが不可欠です。

なぜなら「自分の持って生まれた能力を活用することのできない環境」に置かれた時は、
たとえ「選択や行動の自由」があったとしても、その人には「真の意味での自由」はなく、
心苦しさや生きづらさを感じて、往々にして悩み苦しんでしまうことがあるからです。

たとえどのような苦難や困難に直面したとしても、
己自身を能く知り、その持てる力を十分に発揮し、
「自分らしい生き方」を貫き通す人の心には、
決して輝きを失うことのない「自由」があります。

真理を知るというのは大なる自己に従うのである、
大なる自己の実現である。
知識の深遠となるに従い自己の活動が大きくなる。

〜【善の研究】 第一編 第三章 「意志」より〜

ある意味、人間にとって「真理を知ること」というのは、
「己の中に秘められた叡智と可能性」を見出していくことと言えます。
そのことについて西田幾多郎は「大なる自己に従う」と表現しています。

「いま現在ある自分」よりももっと偉大な、未だ自分の中に隠されている、
「未知なる自分の可能性」をいつまでも・どこまでも追求していくという生き方。
それが哲学者・西田幾多郎の定義する、「真理を知るための方法論」です。

人生で様々なことを経験し、広く知識を得て、

人間としての「見識」を深く培っていくほど、

その人は「大いなる自己の可能性」に近づきます。

王陽明が知行同一を主張したように
真実の知識は必ず意志の実行を伴わなければならぬ。
自分はかく思惟するが、かくは欲せぬというのは
未だ真に知らないのである。

〜【善の研究】 第三編 第一章 「行為 上」より〜

実践なき理論は「空論」と呼ばれ、理論なき実践は「無謀」と呼ばれます。
「真の理論」は「実践的行動」を伴ったものでなければならず、
「実践的行動」は「真の理論」に裏打ちされたものでなければなりません。

真実の知識を持つ人・真実の理論を求める人というのは、
必ず「知識」や「理論」を「実践的な場」において活用しようと試みます。

「○○をしたい!」という具体的な欲求があるのにも関わらず、
そうしたモチベーションを実践的な行動へ移すことのない人は、
真の意味で「何かを知る人」とは決して言えないのです。

「新たな理論」は「実践の場」から生まれ、

「実践の場」から生まれた「新たな理論」が

再び「実践の場」で試され、洗練されてゆく。

我々は小なる自己を以て自己となす時には苦痛多く、
自己が大きくなり客観的自然と一致するに従って
幸福となるのである。

〜【善の研究】 第二編 第九章 「精神」より〜

「今ある自分」だけが自分の全てだと思って生きていくことには、しばしば苦痛がともないます。

しかし人は、「人間」として社会で生きていく中で、だんだんと経験を積み、
様々な知識を習得して己の人間性を磨いていくうちに、次第に自分の潜在的な能力や、
より大きな自分の可能性を実現させるためのチャンスを得ていくことができます。

「今ある自分」だけが自分の全てだと思い込まずに、自分のやりたいことや、
自分を成長させてくれそうな道をさがし求め、それに近づいていくこと、
そのような生き方の先にこそ、幸福になれる可能性があると言えるでしょう。

自分の「心からやりたいこと」を見つけだし、

それに全力でチャレンジし続けるということ。

そのような生き方こそが、最も人を成長させます。

世人は往々自己の理想の実現または要求の満足などいえば
利己主義または我儘主義と同一視している。
しかし最も深き自己の内面的要求の声は
我々に取りて大なる威力を有し
人生においてこれより厳なるものはないのである。

〜【善の研究】 第三編 第九章 「善(活動説)」より〜

「理想を実現する」という事は、決して「自分勝手に欲望を満たす」などと言う事ではなく、
「己の内に秘められた人間的欲求」を見出し、それに従い前向きに生きようと試みることです。
それは「わがまま」や「自分勝手」とは対極の、己に真摯に向き合う厳粛な生き方と言えます。

たとえ他人をだますことができたとしても、決して自分自身はだますことができないように、
自分自身に固有の精神的・内面的欲求の声というのは、決して無視することができません。
自分の心の声に従わなかった経験は「後悔」となり、後々に苦い影響を残すことになるからです。

「理想を実現すること」が難しいと言われるのは、
まず「自分という人間の理想は一体何であるのか」ということを自覚しなければならないからであり、「自分という人間の理想は何なのか」ということを自覚するためには「自分はどのような人間なのか」ということを明らかにする必要があるからです。

自分の弱さ・愚かさ・醜さから目を背ける人間は、
決して「真の理想を実現する」ことはできません。
「己を知る」というのは「ネガティブな自分の姿」から目を背けることなく向き合って、ひとつひとつそれらを克服していくことに他ならないからです。

善とは自己の発展完成であるということができる。
即ち我々の精神が種々の能力を発展し
円満なる発達を遂げるのが最上の善である。

竹は竹、松は松と各自その天賦を充分に発揮するように、
人間が人間の天性自然を発揮するのが人間の善である。

〜【善の研究】 第三編 第九章 「善(活動説)」より〜

「己」という一個の人格を発展させ、その完成へと向かわせることーーー。
それが、哲学者・西田幾多郎の定義する、人間にとってただひとつの、最上の「善」です。

筍(たけのこ)が逞しい竹へと成長し、松ぼっくりから松の幼苗が芽生えるように、
人間もそれぞれが生まれ持った才能・性質をじっくり開花させ、それを大切に育み、
「己」という名の「世界に一つだけの花」を立派に咲かせなければなりません。
「よき人生」を送ることができるか否かは、すべてその一点に懸かっているのです。

人間の最終目標は各々が生まれ持つ天性自然の花、
「人格」という名の花を咲かせることにあります。

それは決して失われることのない芳香を湛えた、
どれだけの時を経たとしても決して散る事のない、
真に人を感動させる力を持った「心の花」です。

人を欺くのが悪であるというは、これより起る結果に由るよりも、
むしろ自己を欺き自己の人格を否定するの故である。

〜【善の研究】第三編第十一章「善行為の動機(善の形式)」より〜

どんな人であれ、たとえ他人を騙すことができたとしても、自分を騙すことはできません。

「他人を騙す」ことにはもちろん「一般常識的な意味」で問題があると言えますが、
「自分が自分を騙す」ことには、「道徳的な意味」でより深刻な問題があると言えます。

自分が自分を騙すこと、つまり自分の人格を自分が自ら否定する行動を取るというのは、
間接的・結果的に「他人の人格」をも否定する行動を取るのと一緒のことであるからです。

自分自身に対して誠実であることができない人間というのは、
他人に対しても、決して誠実であることはできないのです。

「ありのままの自分」であることができない人は、
周囲に居る人たちを結果的に欺くことになります。

己の人格を自分自身が貶めたり、卑しめたり、
傷つけたりするような行動を取ってしまう人は、
間接的に「自分の周囲に居る人たち」の人格をも
貶め、卑しめ、傷つけ、欺いているのです。

一社会の中にいる個人が各充分に活動して
その天分を発揮してこそ、始めて社会が進歩するのである。
個人を無視した社会は決して健全なる社会といわれぬ。

〜【善の研究】第三編第十二章「善行為の目的(善の内容)」より〜

その社会に生きる人間が、それぞれに与えられた能力や性質を十分に発揮し、
いきいきとした、主体的な、「その人らしい人生」を歩み始めるということ。
それが「社会の進歩」に欠かすことのできない条件であると西田幾多郎は考えました。
その社会に生きる個人個人の進歩なくして、社会全体の進歩はありえません。

なぜなら「人間」とは「社会の中に生きる存在」であるのと同時に、
「社会」もまた「人間」によって形づくられるものであるからです。

もし身体の一部に病巣を抱えているなら、それを放置することは健全とは言えません。
同様に、「不幸せな人間」を放置したままの社会は、決して健全とは言えないのです。

社会に生きる個々の人間が日々進歩して、

その人らしい個性をいきいきと発揮すること。

それが「社会の進歩」の為の欠かせない条件です。

我々は自己の満足よりも かえって自己の愛する者
または自己の属する社会の満足によりて満足されるのである。

〜【善の研究】第三編第十二章「善行為の目的(善の内容)」より〜

「自分の周囲の人たち」が幸せでなかったなら、「自分」も幸せではいられません。

自分の周りの愛する人たち、自分の属する社会が幸せになることなしには、
自分自身が幸せにはなることは絶対にありえないからです。そのような意味で、
「自分の幸せ」と「他人の幸せ」には、ほんらい密接な関係があると言えます。

「幸せな自分」というものは、「幸せな他人」との関係性によって育まれ、
そして「幸せな他人との関係」によって幸せになった自分が、今度は再び他人を幸せにしていく、
そんな「幸せの連鎖」がずっと続いていくこと。それが「幸福」であると言えるでしょう。

自分の周りの、愛する人たちを幸せにすること。

それは、「周りの人たち」を幸せにすると同時に、

「自分自身」も幸せになるための最良の方法です。

内面的動機が私利私欲であって、
ただ外面的事実において善目的に合うているとしても、
決してそれが人格実現を目的とする善行とはいわれまい。

我々は時にかかる行為をも賞賛することがあるであろう。
しかしそは決して道徳の点より見たのではなく、
単に利益という点より見たのである。

道徳の点より見れば、かかる行為は
たとい愚であっても己が至誠を尽くした者に劣っている。

〜【善の研究】 第三編 第十三章 「完全なる善行」より〜

たとえその人(集団)が内心に私利私欲や他者への悪意を隠し持っていたとしても、
表面的に実績・業績を挙げれば周囲の人々から賞賛を受ける場合があります。
しかし、それはただ単に「利益」という観点において評価されただけにすぎず、
その個人や集団が「道徳的に正しい」と証明されたわけではありません。

なぜなら、その個人や集団がいくら表面上の社会的実績・業績を挙げた所で、
「指導」と称して生徒に繰り返し暴行を加えて自殺に追い込むような体罰教師や、
従業員を過労死や自殺に追い込む所謂ブラック企業などの例に見られるように、
陰で他者を死に至らしめる暴力を振るう事が、倫理的に許されてよいはずがないからです。

社会の目を欺き、他者をないがしろにしながら、

「表面的な結果」だけを追求する生き方は、

「破滅的な結末」をもたらすことになります。

道徳の事は自己の外にある者を求むるのではない、
ただ自己にある者を見出すのである。

〜【善の研究】 第三編 第十三章 「完全なる善行」より〜

いくら「外から与えられた道徳」に従っていたからと言って、
「己の内にある道徳」に気づくことのない人、それを見てみぬふりをする人は、
真の意味で「道徳的な人物」であるということはできません。

なぜなら、「外から与えられた道徳」に従って「悪いこと」をしなかったからといって、
「自分の中にある道徳」に則って「善いこと」をしたことにはならないからです。

「己の中にある道徳」に従って主体的に「善いこと」をするということ。
また、そのような「己の中にある道徳」を見出していく思考の様式を持つこと、
そうした行為と思索のプロセスの連続が、「道徳的な生き方」の一つの解と言えるでしょう。

「自分の周囲に居る人たち」を幸せにする法則、
そして何よりまず「自分自身」が幸せになる法則。
「真の道徳」とは、その法則が持つ力を自得し、
それとともに生きるという覚悟から始まります。

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