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中村勘三郎さんへの弔辞まとめ

2012年12月27日、中村勘三郎さんの告別式が行われました。弔辞を述べたのは坂田藤十郎さん、片岡仁左衛門さん、坂東三津五郎さん、野田秀樹さん、大竹しのぶさん、松竹代表取締役社長・迫本淳一氏です。ニュースサイトに掲載された弔辞をまとめました。

更新日: 2012年12月28日

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この記事は私がまとめました

lgm_さん

坂田藤十郎さん(歌舞伎俳優)

坂田藤十郎 中村勘三郎さんへ弔辞…「歌舞伎界を引っ張ってくださると信じて疑いませんでした」

芸能ニュースラウンジ http://newslounge.net/archives/56996

勘三郎さん…。あなたがこんなに早く逝ってしまわれるとは夢にも思っておりませんでした。まさに痛恨の極みでございます。

 あなたはお祖父様とご両親から受け継いだ類まれなる資質を持った、生まれながらの歌舞伎役者でした。努力と研究を重ね若くしてすでに名優の域に達していました。

 古典それに、鏡獅子や道成寺などの舞踊。そして新作に至るまで、その鍛錬された芸の精ちさは常に明るく、若々しい風姿、そしてお客様へのサービス精神と瑞々しい色気は多くの人達を魅了しました。

 私たちはあなたが新しい歌舞伎座の舞台に立ち、これからの歌舞伎界を引っ張っていってくださると信じて疑いませんでした。あなたの舞台姿は目をつぶると次々と浮かんでまいります。あの姿をもう一度見ることができないと思うと、残念で…、残念でなりません。

 しかし、あなたがお育てになったお2人のご子息が立派に成長して、あなたの芸と心を、あなたの情熱を受け継いでおられます。あなたが、教え育った中村屋一門はご子息を守り立ててくれるでしょう。

 どうか、どうか、安らかにお眠りください。そして、草葉の陰で、いつまでも歌舞伎界を見守ってください。お願いいたします。日本俳優協会一同の心を込めて、謹んで哀悼の意を捧げますとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。合掌。

片岡仁左衛門さん(歌舞伎俳優)

片岡仁左衛門 勘三郎さんへ原稿持たず対話するように弔辞…「僕は負けました」

芸能ニュースラウンジ http://newslounge.net/archives/57010

哲(のり)ちゃん。僕は部分的に、濃い友達はほかにもいてくださいますが、全部濃い友達は哲ちゃん1人です。

 だから、僕は自分が死んだ時には、哲ちゃんに弔辞を言ってもらおうと決めていました。

 でも、僕は、ここで、哲を偲んだり、悲しみを覚えるような話をしたくないです。僕は至って涙もろい男ですが、嬉しいことに泣いても、悲しいことに泣くのは大嫌いです。だから、僕は哲ちゃんのことが羨ましいです。

 僕たちは多くの人達を見送らなければなりません。これから多くの人を見送る必要がなくなりました。そして、素晴らしい先輩たち。先輩の方々に、ご一緒にいられて、そして、素晴らしいお芝居を見せていただいて、素晴らしい指導を受けてくれていることと思います。

 まあ、僕もすぐに…、すぐかは分かりませんが、行きますから、そのときには僕をよく導いてください。お願いします。

 本日11時の時点で一般焼香の方が2000人も並んでいるという話を聞きました。本当に哲はすごいです。僕は負けました。では、待っていてください。

坂東三津五郎さん(歌舞伎俳優)

坂東三津五郎 50年来の友人勘三郎さんへの弔辞に涙で「本当に寂しい…つらいよ…」

芸能ニュースラウンジ http://newslounge.net/archives/56999

(勘三郎さんの本名の)哲明さん。哲ちゃん。あなたの祭壇の前で、私が弔辞を述べるなどというこの光景は、誰が想像したでしょう。いまだに芝居か映画の1コマのようで、まったく現実感がありません。

 君は僕の半年前に生まれ、気づいたら僕の前を歩いていました。小学2年生のときに、白浪五人男で初めて共演した時には、あなたはもう天才少年、勘九郎坊やとして人気でした。その後も、君はずっと僕の前を歩き続け、僕は、あなたに遅れまいと、離されまいと、必死に走り続けてきました。だから、いまの僕があるのはまったく君のお陰で、心から深く感謝しています。

 小さい頃から仲良くしてもらい、いたずら好きの君と一緒に歌舞伎座の機関室でドライアイスを手に入れて、成駒屋のおじさんがお風呂にお入りになる前に入れてしまい、こっぴどく怒られたこと。

 高校時代、お城好きの僕が、城巡りの旅をしたときに、「僕も一緒に連れて行ってくれ」というので夜行列車に乗って金沢に行き、福井の丸岡城を周って、京都に寄って都踊りを観ていく、2人っきりの旅行もしました。

 信じられないことにあのころの君は、「三津五郎の本名)寿ちゃん僕はねぇ、お酒の席でお酌をするような女性は嫌いなんだよ」という清純派でした。それが、都踊りの舞台の上から、ある芸姑さんにウインクをされてから一変。「ねぇ寿ちゃん。なんであの人僕達にウインクしたんだろう?」『ただの気まぐれかいたずら心じゃないかな』「でもさ、気にならなければあんなことしないよね。だって、ウインクだよ!ウインク!」と、10分おきに起こされて、眠れなかったことも懐かしい思い出です。

 あの頃は若く、毎日のように会っては、いろんな夢を語り合った。だけど20代のころは僕達にはなかなか活動の場が与えられず、君は当時の社長に掛けあってくれて、開演前の8時30分から、寺子屋を勉強させてもらったことがありました。叔父さんがまだお元気で、小日向のお宅で一生懸命けいこをしてくださいました。

僕達の世代で歌舞伎座を開けたいという思いを叶えたのが納涼歌舞伎。その第1回の千秋楽で客席を見上げると3階までいっぱいのお客様。思わず目頭が熱くなり、手を取り合って喜んだことを今でも覚えています。その後、納涼歌舞伎は看板公演の1つとなり、古典の大役から野田(秀樹)さんや(渡辺)えりさんの新作までさまざまな芝居を勉強させてもらいました。

 これもひとえに、君の発案と企画、行動力で、みんなを強力に引っ張っていってくれたからだと感謝しています。その納涼歌舞伎も、歌舞伎閉場にともない、しばらくお休みとなり、実はこの2年半は、2人の共演が一番少ない時期でした。

 その間、君は1つの病を克服し、迎えた2月の勘九郎襲名公演で君がこれまで蓄えてきた芸が底光りするような、あまりにも素晴らしい出来だったので、『今度のは素晴らしい、恐れいった』というと、君は照れ笑いしていたけれど、明らかにまた1つ高い芸境へ進んだことが分かり、さらに、追いかけなくちゃと思っていた矢先でした。

 長い付き合いでしたが、性格があまりに違いすぎたせいか、ケンカをしたことがありません。芝居も踊りも持ち味が違い、20代から8回も演じた棒縛。はじめの頃は、お前たちのようにバタバタやるもんじゃない、春風が吹くようにフワッとした感じでやるものだと、諸先輩から諸注意を受けましたが、お互いに若く、負けたくないという心から、なかなかそのようにできなかった。

 それが、お互いに40を超えた7回目の上演のとき、「やっと先輩たちの言っていた境地の入り口に立てた気がするね」と握手をし合ったことを忘れません。長年の経験を経て、お互いに負けたくないという意識から、君には僕がいる。僕には君がいるという幸せと感謝に生まれ変わった瞬間だったように思います。

 いつかはやろうと言っていたものが、もう一緒にやることができないと思うと、言いようのない悲しみと寂しさで、心に大きな穴が開き、生きる楽しみがなくなっちゃったみたいです。(※)

(涙声で)いまでも目をつぶれば、横で踊っている君の息遣い。いたずらっぽい、あの目の表情。躍動する体が蘇ってきます。肉体の芸術ってつらいね…。そのすべてが消えちゃうんだもの。本当に寂しい…、つらいよ…。でも、その僕のつらさより、もっと、もっとつらい思いをして、君は病と闘ったんだよね。苦しかったろう…、つらかったろう…。いま、少しでも楽になれたのだとしたら、それだけが救いです。

 そんな大変な手術をするのに、僕が初めて挑戦した一人芝居を気遣ってくれて、「観に行けないけれど場所を頑張ってね」と、メールをくれた君の優しさが、残された文字を見る度に胸に突き刺さります。(※※)

 君がいてくれたおかげで、この56年間、本当に楽しかった。ありがとうね、哲明。君は交友関係も広く、活動の場も広かったから、さまざまな人の心に、さまざまな思いを残したと思うけど、僕は50年間一緒に芸を勉強し続けた友人として、不屈の信念で体に宿った魂。人の何倍もの努力によって培った芸のすごみで、誰にもマネのできぬ芸の境地に立った歌舞伎役者だったことを、伝え続けたいと思います。

 君のマネはできないし、やり方は違うかもしれないけれど、(勘九郎の本名)雅行くん、(七之助の本名)隆行くん、七緒八(なおや)くんと一緒にこれからの歌舞伎をしっかり守り、戦い続けることを誓います。

 これで、しばらくは一緒にやれなくなったけれど、僕がそちらに行ったら、また、一緒に踊ってください。そのときのために、また、けいこしておきます。

 最後に、僕達同世代の役者。また、君に続く、後輩たちを代表して、この言葉を捧げます。中村勘三郎さん、波野哲明さん、きょうまで本当に、本当に、ありがとうございました。

※(注) この記事では省略されていますが、朝日新聞ではこの部分は『その「棒しばり」も、「三社祭」「勢獅子」「団子売」「身替座禅」も、いつかはやろうと約束していた「峠の万歳」「夕顔棚」、もう一緒にやることが出来ないと思うと、言いようのない悲しみと寂しさで、心に大きな穴があき、生きる楽しみがなくなっちゃったみたいです。』と書かれています。 http://digital.asahi.com/articles/TKY201212270803.html

※※(注)転載元の記事の間違いですが、×「観に行けないけれど場所を頑張ってね」→○「観に行けないけれど『芭蕉(通夜舟)』頑張ってね」のようです。ここで書かれているひとり芝居の概要はこちら→ 三津五郎が舞台『芭蕉通夜舟』に出演(歌舞伎美人) http://www.kabuki-bito.jp/news/2012/06/post_632.html

野田秀樹さん(劇作家・演出家)

野田秀樹 戦友の勘三郎さんへ弔辞…「どうか、どうか、安らかなんかに眠ってくれるな」

芸能ニュースラウンジ http://newslounge.net/archives/57007

見てごらん。列をなし、君を見に来てくれている人たちを。

 君はこれほど多くの人に愛されていた。そしてきょう、これほど多くの人を残して、さっさと去ってしまう。残された僕たちは、これから長い時間をかけて、君の死を、中村勘三郎の死を越えていかなければならない。

 いつだってそうだ。生き残った者は、死者を越えていく。そのことで生き続ける。分かっている。けど、いまの僕にそれができるだろうか…。君の死は僕を、子供に戻してしまう。これから僕は、君の死とともにずっと、ずっと生き続ける気がする。

 芝居の台本を書いているときも、桜の木の下で花を見ているとき、けいこ場でくつろいでいるとき、落ち葉がハラハラと一枝を舞うとき、舞台初日の舞台本番前の袖でも、ふとしたはずみで、君を思い出し続けるだろう。

 たとえば、君が、僕に歌舞伎のホンを書かせてくれたとき。初日、君の出番寸前で、歌舞伎座の君の楽屋で、2人で不安になった。もしかしたら、観客から総スカンを受けるんじゃないか。つい、5分前まではそんなことをまったく思いもしなかったのに、君が「じゃあ舞台に行ってくるよ」。そう言った瞬間、君と僕は半分涙目になり、「大丈夫だよな?」「大丈夫、もう、どうなっても…、ここまで来たんだから」。

 どちらからともなく、同じ気持ちになりながら、君が言った「戦場に赴く気持ちだよ」。やがて、芝居が終わり、歌舞伎座始まって以来のスタンディングオベーションで、僕たちは有頂天となり、君の楽屋に戻り、夢から覚め、しばし冷静になり、「よかった。本当によかった」と抱き合い、君は言った。「戦友ってこういう気分だろうな」。そうだった。僕らはいつも戦友だった。

 僕らはいつも何かに向かって戦って、ときには心が折れそうなとき、大丈夫だと励ましあってきた。君が演じる姿が、どれだけ僕の心の支えになっただろう。それは、僕だけではない。君を慕う、あるいは親友と思う、すべての君の周りにいる人々が、君のみなぎるパワーに、君の屈託のない明るさに、ときに明るさなどを通り越した無謀な明るさに助けられただろう。

君の中には、古き良きものと、挑むべき新しいものとがいつも同居していた。型破りな君にばかり目がいってしまうけれども、君は型破りをする以前の古典の型というものを心得ていたし、歌舞伎を心底愛し、行く末を案じていた。とにかく勉強家で、人はただ簡単に君を天才と呼ぶけれど、いつも楽屋で本から雑誌、資料を読み込んで、ありとあらゆる劇場に足を運び、吸収できるものならばどこからでも吸収しそうやって作り上げてきた天才だった。

 だから、役者・中村勘三郎。君の中には、芝居の真髄というものがぎっしりと詰まっていた。それが、君の死とともにすべて、跡形もなく消え去る。それが、悔しい…。

 (涙声で)君のような者は残るだろうが、それは君ではない。誰も、君のようには二度とやれない。君ほど愛された役者を僕は知らない。誰もが舞台上の君を好きだった。そして、舞台上から降りてきた君を好きだった。こめかみに血管を浮かび上がらせ憤る君の姿さえ誰もが大好きだった。

 君の怒りは、いつも酷いことをする人間にだけ向けられていた。何に対しても君は真摯で、誰に対しても君は思いやりがあった。

 そして、いつも芝居のことばかり考えて、夜中でもへっちゃらで電話をかけてきた。「あの、あれ、どう、絶対に頼むよ。絶対だよ」。主語も目的語もない、わけの分からない言葉でこちらを起こすだけ起こして切ってしまう。電話を切られた後、いつも深夜のこちら側には、君の情熱だけが残る。

 いまの君と同じだ。僕の手元に残していった君の情熱を、これからどうすればいいのだろう。途方に暮れてしまう。

 そして、君はせっかちだった。エレベーターが降りてくるのも待てなくて、エレベーターの扉を両手でこじ開けようとした姿を僕は目撃したことがある。勘三郎。そんなことをしてもエレベーターは開かないんだよ。待ちきれずエレベーターをこじ開けるように、君はこの世を去っていく。

 お前に安らかになんか眠ってほしくない。(涙ながらに)まだ、この世をウロウロしていてくれ。化けて出てきてくれ。そして、ばったり俺を驚かせてくれ。君の死は、そんな理不尽な願いを抱かせる。君の死は、僕を子供に戻してしまう。

 『研辰の討たれ』の最後の場面。君はハラハラと落ちてくるひとひらの紅葉を胸に置いたまま、「生きてえなぁ。生きてえなぁ」と言いながら死んでいった。けれども、あれは虚構の死だ。嘘の死だった。作家はいつも虚構の死を弄ぶ仕事だ。だから、死を真正面から見つめなくてはいけない。

 でも、いまはまだ君の死を、君の不在を真正面から見ることなどできない。子供に戻ってしまった作家など、作家として失格だ。でも、それでいい。僕は君とともに暮らした作家である前に、君の友だちだった。親友だ。盟友だ。戦友だ。

 戦友に諦めなどつくはずがない。どうか、どうか、安らかなんかに眠ってくれるな。この世のどこかをせかせかとまだウロウロしていてくれ。

大竹しのぶさん(女優)

大竹しのぶ勘三郎さんへ涙の弔辞…「哲さん…大好きですよ」

芸能ニュースラウンジ http://newslounge.net/archives/57002

哲明さん。あなたがいなくなってから、3週間と少しが経ちました。私たちはまだその事実を受け入れることができず、ただただ、途方に暮れた日々を過ごしています。

 (遺骨の方を向き)そんな小さな白い箱を蹴破って、「冗談じゃないよ!まったく」。そんなことを言いながら、あの世界一チャーミングな笑顔で、私たちの前に現れてくれる。その方がずっとずっと現実味があるのです。

 暑い暑い7月の終わり。私は手術後、2日目のあなたを訪ねました。私に見せるためと、痛み止めを打ち、「効いた?効いた?」とせっかちなあなたらしく、看護師さんを困らせながらICUの廊下を歩いてくれました。たくさんの管をつけ、点滴を引きずりながら。ゆっくり、ゆっくり、けれど確かな足取りで歩くあなたに、まるで花道を歩いているあなたに向けるように、大きく熱い拍手を送りましたね。

 ほめられることが大好きなあなたは、嬉しそうに、ちょっと恥ずかしそうに笑い「大竹しのぶに拍手もらっちゃったよ」と、もちろん、支えてくれた看護師さんへの感謝も忘れませんでした。

 それから4ヶ月。本当につらい、苦しい、闘病生活が始まりました。あんなにたくさんの人を幸せにして、あんなにたくさんの人に愛されてきたあなたが、なぜ、こんな目に遭わなければならないのか、どうしても理解できない、苦しい4ヶ月でした。

 それでもあなたは、まじめに、一生懸命病気と闘ってくれました。数値的にも、状況的にも絶望だと言われたときも、あなたは何度も何度も奇跡を起こし、私達に光を与えてくれました。大きな厚い壁が突然下ろされても、あなたは諦めることなく、強い肉体と精神力で自らその壁を押し上げ、次の光へ導いてくれていました。

 私達だけでなく、先生方も一緒でした。「こんなすごい人はいません。僕達が教えられます。だから、この人のために何とかしたいと思うのです。本当になんとかしたいと思うのです」と、涙を浮かべておっしゃったことがありました。

 病室でのあなたは、あいかわらず皆に愛されていました。思うように体が動かせなくても、表情と手首だけで見得を切り、看護師さんから拍手をもらっていました。意識が少しクリアでないときも、芝居の話をすると大きく目を開き、私達の話を聞いてくれました。そして、話したいことがたくさんあると。

 肺があまりうまく動かないとき、『哲さん、芝居のときのように大きく息を吸ってやってみて』というと、大きくゆっくり深呼吸ができましたね。

 これは先生の言葉です。「やんごとなき心臓を持ち、やんごとなき精神力を持ち、恐るべし中村勘三郎」。でも、それはあなたが生きていたいと思ったからですよね。生きて行かなければならない人だからですよね。

 あなたと、なぜ、いまこの別れをしなければならないのか、当分私たちはこの答えを見つけることができないと思います。天日坊を観た時、「あいつら良かったでしょう?まだまだだけど、俺のスピリッツは受け継いでくれたかな」と言っていた6月。

 そう、あなたの魂を受け継いだ勘九郎がいます。七之助がいます。七緒八(なおや)くんがいます。その答えを、彼らが出してくれる日まで私たちは頑張っていきます。

 前よりも、もっともっと大きな力を持った哲明さん。この3人を、そして(前田)愛ちゃんを見守ってください。そして何よりも、あなたの愛してやまない好江ちゃんにも力を貸してあげてください。

 哲さん…、大好きですよ。(涙声になり)いまも、これからも。ありがとう。またね。

迫本淳一氏(松竹代表取締役社長)

中村勘三郎さんへ松竹代表取締役社長・迫本淳一氏弔辞…「虚しさ悲しさは言葉になりません」

芸能ニュースラウンジ http://newslounge.net/archives/56991#more-56991

中村勘三郎さんのご霊前に謹んでお別れの言葉を申し上げます。

 中村屋さん。あなたにこのような形でお別れすることになるとは、いまこうしてお別れの場に臨んでおりましてもいまだに信じることができません。言いようのない悔しさ、ただ、ただ、無念であります。

 一昨年の秋ごろから体の不調を訴えて、しばらく休んでいらっしゃったあなたは、大好きな松本で舞台復帰されました。何か以前より格調が増したように思いました。その後も、本調子でないといいながらも、6ヶ月に及ぶ平成中村座やご子息の中村勘九郎襲名披露興行の舞台に立たれたことを私たちの誰もが中村屋さんご一家の新たな門出と祝福しておりました。

 そのあなたが57歳という若さで、われわれの手の届かないところへ行ってしまう。これほどつらく、痛恨な別れを私たちは経験したことがありません。

 中村屋さんあなたは天才的な名優であった先代の中村屋さんのご長男として生まれ数え4歳のときに舞台を踏まれた時から歌舞伎にとって、いや演劇や映像といった垣根を越えた世界でさん然と輝く太陽のような方でした。

 中村勘九郎という名前を46年にわたって守り、これほど大きな名跡にされたことが、何よりあなたが太陽であったことの証であったと思います。

 そしてあなたは、観るものに幸せを与えるという俳優という使命に生きてこられました。あなたが天才的な子役と称えられた小さい時、青少年時代が今も懐かしく思えます。二十歳のときに初めて踊った鏡獅子はあなたの大切な財産となりました。敬愛するお祖父様やお父様の芸を、さらに多くの先輩達の芸を必死に追い求めて青春を謳歌されてました。

 最愛の奥様の好江さんと結ばれ、勘九郎くん、七之助くんという2人の後継者に恵まれました。32歳でお父様を亡くされましたが、岳父である中村芝翫さんは昨年まであなたを見守ってくださいました。あなたはいかなる困難もものともせずに、猛然と活躍の場を広げてゆかれました。

 歌舞伎はいつの時代でも古典の継承と新しい創造が両輪であります。23歳で初めてお父様達とアメリカ公演に参加したころから、古典の大役を1つずつ大切に演じるようになりました。お父様やお祖父様の当たり役を手がけられました。

 平成に入ってからのあなたは、まさに情熱の塊でした。現代に生きる歌舞伎を志して平成6年にシアターコクーンで初めての歌舞伎公演を行ったのでした。若者の街で歌舞伎をやりたいという夢をかなえると、新しい創造に命をかけていらっしゃいました。

 ベルリン公演で、われわれは舞台に関わるものも初日終演後のパーティーで、私はわれわれは舞台にかかわるものも、又ファンのみなさまも歌舞伎という一つの家族ですと紹介しましたが、あなたの行くところはいずこであろうと歌舞伎を愛する家族の輪が花開きました。

 平成中村座での古典の上演もあなたにとっては幸せな時間だったと思います。はからずも最後になってしまいましたが、5月の浅草での公演で江戸に生きているような嬉しそうな顔をしていらしゃいました。古典に新作に汗びっしょりになって世界を駆け抜けて行かれました。

 そんなあなたにとって、初孫の七緒八(なおや)くんが誕生したときは、なにか久しぶりに戦場から戻ったようなやすらぎのひとときだったような気がします。親子三代での舞台を踏めると大喜びだったというのがいまも私の脳裏に刻まれています。

 あなたは芸ということについて誰よりも自分に厳しかった。ご子息たちにその思いを伝え、家芸を伝えるためには尋常ではない思いをぶつけていらっしゃいました。それは奥様へも同じだと思います。

 しかし、どれほど厳しくともそこにご家族への言葉で現すことのできない程の深い愛情があふれていました。松本で復帰されたときその思いを私に言ってくださいました。まさに炎のようなあなたが、ご家族を慈しみこれから、先を思う優しいまなざしを、いましみじみと思い出しています。

 それゆえに、なによりも舞台が好きだった中村屋さんが新しい歌舞伎座の舞台に立つことなく、天に召されるということを、私たちの誰もがいまだに受け入れることができません。

 あなたのいない虚しさ、悲しさは言葉になりません。中村屋さん、これからもどうぞわれわれといらしてください。そして、いつまでも愛するご家族を見守ってあげてください。

 こらえきれない悲しみを乗り越えて、私たちは必ず立派な歌舞伎座と歌舞伎を作って参ります。ご冥福をお祈りし、お別れの言葉と致します。

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