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NHK大河ドラマ【八重の桜】まとめ

豪華出演者、イケメンキャスト(西島秀俊、長谷川博己、綾野剛、斉藤工 小栗旬 等)、子役の鈴木梨央(ちび八重ちゃん)、オダギリジョーの「ジョーつながり」、映画のような映像美、いろいろと話題の【八重の桜】<敗者の歴史を女性の視点から描く>がテーマのひとつ。「ゲゲゲの女房」の山本むつみの脚本も楽しみです。

更新日: 2013年04月01日

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六甲山系さん

<悪妻、烈婦、元祖ハンサムウーマン>などと呼ばれる程、明治の時代にあってエネルギッシュに生き、皇族以外の女性としてはじめて政府より叙勲を受けた先進的な女性。
戊辰戦争時、鶴ヶ城に籠城し、断髪・男装をして戦ったことから『幕末のジャンヌ・ダルク』、晩年は日清・日露戦争で国内の救護活動を指揮し、看護婦の地位向上に貢献したことから『日本のナイチン・ゲール』とも呼ばれる

1845年12月1日生
1865年、川崎尚之助と結婚
1868年1月、鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争勃発。
覚馬行方不明。
弟三郎、戦死。
1868年8月23日、鶴ヶ城籠城戦が始まり、三郎の服を着て、銃を片手に入城。
1868年9月17日、父山本権八戦死。
23日、会津藩降伏調印。
24日、尚之助、他の藩士と猪苗代の謹慎所へ移る。
八重、小田村避難所にて生活。
1871年10月京都到着。
1871年12月、八重、川崎家を廃家、山本家の戸籍に復籍。
1875年3月、尚之助死。
10月、新島襄と婚約。
1876年1月3日、新島襄と再婚。
1932年6月、京都自宅にて急性胆のう炎で亡くなる。
享年86歳

1836年1月、出石藩(兵庫県豊岡市出石町)の医師川崎才兵衛の子として誕生。
元の名は正之助。
1854年、江戸で山本覚馬と知合う。
その後、覚馬に請われ会津若松に赴き、1865年、会津藩士となる。尚之助と改名。八重と結婚。
1868年8月23日、会津城下で戦いが始まり籠城し戦う。9月 23日、会津藩、降伏調印。
八重は小田付の避難所で生活を始める。
24日、他の藩士と猪苗代の謹慎所へ。
1870年10月、集団移住先の斗南藩(青森県東部)で飢餓に苦しむ農民救済で行った米の先物取引で問題が起き裁判となる。
1875年3月、裁判継続中、現在の東京大学病院で慢性肺炎の為死亡。
享年38歳。

但馬国において、出石藩の医師・川崎才兵衛の子として生まれる。
江戸に出て、坪井為春らに蘭学、舎密術(化学)を学び、神田孝平、加藤弘之らと並ぶ屈指の洋学者として知られたという。
江戸において会津藩の山本覚馬と知己になり、その縁から、会津藩藩校・日新館の蘭学所において蘭学を教授し、鉄砲・弾薬の製造も指導した。
慶応元年(1865年)、山本覚馬の妹・山本八重(後の新島八重)と結婚。尚之助29歳、八重21歳の時。

川崎尚之助は山本覚馬と並ぶ砲術家で、会津藩には有能な砲術家は川崎尚之助と山本覚馬の2人だけだった

『川崎尚之助』鶴ヶ城籠城戦で砲術指揮、そして会津藩降伏後

会津藩は負け、藩士たちは謹慎処分を受けた。
しばらくして、明治政府から命令が下り、会津藩の男性たちは、当時未開の地であった青森県の下北半島へ移住するよう命じられた。

川崎は1870年10月、集団移住先の斗南藩(青森県東部)で飢餓に苦しむ農民を救うため、藩の許可を得ずに大豆との交換条件でコメを先物取引したが、交換手形を回収できず損害を出した。取引を主導した米座省三が逃亡する中、川崎は「藩は無関係」として自ら法の裁きを受けることにし、72年8月から東京で保護観察下に置かれた。

川崎尚之助は斗南藩士だったが、斗南藩からは給料が出ておらず、裁判所から支給されるわずかなお金で生活しており、食事にも困るほどの生活だった。

既に川崎尚之助は食うや食わずの生活でやせ細っており、いつしか病気になっていた。しかし、医者にかかるお金も無かった。

このとき、川崎尚之助を支援したのが、砲術の弟子・小森沢長政だったのである。

1868年、会津藩が軍制改革を行い、フランス式の軍隊編成を進めていたころ、米沢藩から来た米沢藩士・内藤新一郎や小森沢長政が会津藩士・川崎尚之助から砲術を学んでいた。

八重は斗南に行かず米沢の内藤新一郎宅で世話になっていた。内藤と小森沢は共に米沢藩出身で尚之助の弟子。尚之助の苦境を内藤は小森沢から聞き知っていたはず。八重も知らされていたのではないか?

なぜ八重は会津藩降伏後は尚之助と行動を共にしなかったのか?

ふたりの結婚は愛情からではなく砲術家として同志的なもの、また尚之助が会津藩籍を得るためだったとも考えられる

尚之助は酷寒の地、斗南で旧会津藩の仲間の飢えをしのぐために涙ぐましい献身を貫き、米の調達のために先物取引に手をそめ裁判で訴えられ食事にも不自由する生活を送っていた

それを知りながら八重は援助もせず川崎家を廃家に?そして尚之助の死後7ヵ月後同じ年に新島襄と婚約した

明治四年(1871年)、すでに死んだと思ってあきらめていた兄=覚馬が京都にいる事を知った八重は、兄を頼って上京・・・京都府顧問となっていた兄の勧めで、京都女紅場(後の府立第一高女)の事務見習いとして働きます。

この頃に、尚之助と再会したという事ですが、お互いに、もう愛情は冷めており、何がどうなるという事もなかったようです。

東京の片隅に蟄居していた尚之助さんを探し出し再会を果たし、兄・覚馬さんが尚之助さんに京都へ来るように勧める場面を記しています。その中で、敗戦の際の別離の場面をこの様に回想しています。

京都にくれば、貴殿ならばまだまだ働きどころがある。それに八重もおる。』

『妻であった八重どのは、あの城ごもりの戦で果てました。そのように考えております。』

尚之助のことばに八重は息をのんだ。八重は尚之助との別れの瞬間を忘れもしなかった。立ち去りがたく自分をみつめている尚之助に八重は、『あなたには妻女はおりませぬ。砲弾に斃れたのでございます。』と、叫んだのであった。

裁判で迷惑を掛けぬよう尚之助が縁切りを頼んだとも考えられる

裁判の方は、川崎尚之助に相続人が居ないため、川崎尚之助の死をもって終結。
 川崎尚之助が山本八重に巨額の負債が掛からないよう、何らかの方法で離婚していたとも考えられるが、どの説でも、山本八重と川崎尚之助の離婚理由は良くわかっていない。

 山本八重も生涯、川崎尚之助の事を何度聞かれても「離縁した」と一言だけ発し、離婚理由はおろか、どのような人物だったのか、馴れ初めなども一切語っておらず、詳しい事は不明である。

いずれにしても義理堅さが胸に迫る尚之助の生き方である

再会から2年後、尚之助さんは亡くなっています。享年三十数余。死後、尚之助さんの門人を通じて次のような自筆の狂歌2首が八重さんに届けられています。明治8年(1875年)、覚悟の上の貧窮の死でありました。  このごろは金のなる子のつな切れてぶらりとくらすとりこえの里  今日もまだかてのくばりはなかりけり貧すりゃどんの音はすれども

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