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教科書に載ってる世界四大文明はとっくの昔に完全否定されたウソ!中国(清)発の政治的主張

中学・高校で習った「世界四大文明」はとっくの昔に世界の歴史学会では否定されていました。にもかかわらず何故か未だに歴史教科書に載っています。世界四大文明は清朝末期の政治家・ジャーナリストが唱え、中国・韓国・日本でのみ受容されています。

更新日: 2013年02月19日

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waijiroさん

「世界四大文明」といわれているものがあります。
いわずと知れた、エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、黄河文明の四つです。
これが世界の文明の黎明であると学校では「世界史」の授業で教えています。

科学的調査法のなかった百年前ならいざ知らず
現在の調査では、少なくともこの時期、約二十の文明があった

「世界四大文明説」なるものは、とっくの昔に世界の歴史学会で、完膚なまでに否定されきっている説です。

最近の学校の教科書ではどう教えているのか?

今でもあのしょーもない四大文明説は学校とかで教えているのだろうか。
さすがにそれはないと思うが、高校生向きと思われるネットの「世界史講義録」とみると困惑する。

農耕が世界各地で始まるのですが、その中で文明と呼べるものを生み出した地域が四つあります。すべて、大河の流域に生まれました。
 メソポタミア文明---ティグリス・ユーフラテス河
 エジプト文明---ナイル川
 インダス文明---インダス川
 黄河文明--------黄河

 古い順に列べてあります。
 長江文明を言う人もいますが、まだ評価が定まっていませんから、ここでは覚えなくてもいいです。
 それぞれの話は次回以降にやります。
 今日はこの四大文明の共通点を確認して終わろう。

文部科学省の新学習指導要領に世界四大文明が記載されていた!

エジプト,メソポタミア,インド,中国は,世界の四大文明発生の地といわれ,それぞれ文字文化を有していたことが伝えられている。

新学習指導要領の世界四大文明に対して学習塾は?

導入部分で、小学校の復習や各時代の重要人物を総括的に扱うなどしています。
また、四大文明の学習や、宗教のおこりとして三大宗教にふれていることは新しい内容としてあげられます。

ポイント4:「四大文明」など、世界史が復活

新教科書の「歴史」の大きな変化として、「世界史」の復活が挙げられます。
「四大文明」や市民革命、産業革命など多くの項目が教科書の本文に戻ってきました。

現行教科書では掲載されていない「四大文明」の詳細や「三大宗教」、「中世ヨーロッパ」などの世界史事項の内容が復活しています。

四大文明という概念は中国・日本・韓国以外では受容されていない。

ここで四大文明は、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明をさす。

なお、四大文明という概念は中国・日本・韓国といった東アジアでは受容されているもののその他の地域では受容されていない。

四大文明という”概念”は欧米では受容されていない。中国・韓国・日本のみで教えられている。

考古学では四大文明は完全に否定されている

エジプト文明、メソポタミア文明、インダス文明、中国黄河文明を世界四大文明として、世界文明の祖であると考えるのは、学問の世界では今や完全に否定されている。
これは、考古学の成果により、同条件を満たす地域が他にいくつも発見されたことによる。
そもそも欧米では四大文明という考え方をこれまでもしていない。
世界に通用しない過去の学説を当然のように載せているのが日本の中学の歴史教科書なのである。

四大文明の概念の原型は清末期の政治家・歴史学者の梁啓超の詩『二十世紀太平洋歌』から

「地球上の古文明の祖国に四つがあり、中国・インド・エジプト・小アジアである」

この「四大文明古国」という考え方は東アジアでは広まったものの、欧米では受け入れられなかった。また、考古学研究が進展した現代では、初期の文明をたった4つに限定する見方は否定的であり(当の中国でも長江文明や遼河文明など、黄河文明以外の文明が存在したことが確認されている)、四大文明という概念自体が知識に乏しかった過去のものといえる。

そもそも「世界四大文明説」というのは、
1900年に、清朝末期の支那の政治家梁啓超(りょうけいちょう)が
日本に亡命中に唱えた政治論です。歴史論ではない。

どういうことかというと、1900年頃というのは、清王朝の末期です。
支那は欧米列強に植民地として国土を食い荒らされていた。

そんな折に、日本に亡命していた支那人政治家の梁啓超が、
日本で、支那には「黄河文明」という欧米に匹敵する古い文明があったのだ
(当時はまだ長江文明は発見されていなかった)という話を教わり、
「そうだ! 支那には誇るべき歴史があるのだ。
そのことを支那の民衆に教えねば!」と、これを本に書いた。

梁 啓超(りょう けいちょう)は清末民初の政治家、ジャーナリスト、歴史学者。字は卓如、号は任公、飲冰室主人など。さらに中国之新民他きわめて多数のペンネームをもつ。

主義主張が同一人物とは思えないほど変動が激しいことも、梁啓超が長らく批判の対象となってきた一因である。彼自身も1920年に書いた『清代学術概論』の中で、「わが学問は博きを愛することに病む。このために、浅薄で乱雑なのである。最も病んでいるのは定見がないことだ。獲得したと思ったら、たちまちのうちに失ってしまう。あらゆるものは私を見習うべきだとしても、この二つは私のようになってはならない」と自省している。

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