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2013年、41年目の「ブラディ・サンデー」に、「公民権」という言葉を手掛かりに。

2013年に作成したページ。末尾に2015年に書いたものを追加します。

更新日: 2015年02月01日

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この記事は私がまとめました

nofrillsさん

1968. London protester outside London Ulster office.
1968年、ロンドンのアルスター・オフィス(「北アイルランド庁」のような政府機関)の前の抗議者。

「公民権運動」 Civil Rights Movement

公民権(こうみんけん)とは、公民としての権利のこと。公民としての権利とは、公職に関する選挙権・被選挙権を通じて政治に参加する地位・資格、公務員として任用される権利(公務就任権)などの総称で、参政権、市民権とほぼ同じ意味である。

特に「公民権運動」で、「公民権」という「用語」に私が初めて接したのは、アメリカ合衆国の「黒人差別撤廃運動」という文脈でのことだった。

確か、学校の教科の「英語」の教科書か、副読本的な教材、あるいはプリント教材か大学の入試問題を集めた問題集だった。(つまり「英語」の枠内であり、「社会科」ではなく、「テレビや新聞のニュース」でもない。)

「黒人」が、「肌の色」ゆえに「差別」されている状態――バスは座席が別、公園や海水浴場のような施設も「黒人と犬は立ち入り禁止」のゾーンがあるのが普通、という状態――に、人々が公然と、堂々と、非暴力的に、「NO」の声をあげた。

その「うねり」がいかに大きな影響をアメリカの社会に与えたかは、ローザ・パークスと、マーティン・ルーサー・キング牧師という2人の人物、「アラバマ州モントゴメリーのバス」と「ワシントン大行進」という「公民権運動」の象徴に集約されていた。

「不平等な選挙権」、「就職差別」などの「ディテール」を知ったのは、もう少し後、「『英語』という学科」の枠を超えたテクストに接したときだ。

出典kwout.com

"Black is beautiful." という「公民権運動の」スローガンも、そのころに知ったのだと思う。

実際、2013年の現在も、ウィキペディアを見ると、日本語圏では「公民権運動」と言えば *American* Civil Rights Movement のことを指す、ということになっている。

(ウィキペディアでは「ソース」としてアレかもしれませんが……)

だから、その「公民権運動」という言葉や、米国でキング牧師のような人たちによって使われていたスローガンが、「白人しかいない」ような社会で、「白人」が「白人」に対して突きつけるプラカードやバナーでも使われていたと知ったときは、「これまで嘘を教えられていた! ニッキョーソに騙されていた」(笑)というに等しいような衝撃を受けた。

- 「白いニグロ」 white negro

北アイルランドを含むアイルランドについての研究で多くのお仕事をされている堀越智さんによる1970年の新書のサブタイトルにある「白いニグロ」。

※この本については下記URLを参照。品切れ本だが、私は2000年代に古書で普通に入手した。今も古書市場で探せば容易に入手できる。
http://www.sanseido-publ.co.jp/sinagire/sinagire_sinsyo.html

北アイルランド議会では、普通選挙権に加えて、国立大学の卒業者がもつユニバーシティ・ヴォートと企業主がもつビズネス・ヴォートがあり、企業主は財産高に応じ、最高6票までもつことができる。地方議会では普通選挙権がなくなり、世帯主とその配偶者の選挙権と、ビズネス・カンパニー・ヴォートとなる。これらはすべてカトリックに非常に不利である。起業家の多くはプロテスタントであり、また63~64年の調査によれば、大学教育を受けているものは、プロテスタントはカトリックの3倍以上であった。

出典堀越智『アイルランドの反乱: 白いニグロは叫ぶ』、1970年、三省堂、14ページ

これが、書籍が出た1970年の状況である(現在はこのようなことはない)。

※横書きでの引用に当たって漢数字をアラビア数字に置き換えた。(以下同)

たとえばデリー市の場合。人口はカトリックが約3万6千、プロテスタントが約1万7千であり、21歳以上の人口ではカトリックが1万9千、プロテスタントが1万であるが、議席はイギリスとの連合を主張するユニオニストが12、南の共和国との統一を主張するナショナリストが8である。このことは市営住宅の割当てや職業あっせんなど市民生活にすぐあらわれる。アルスター全体の失業率が6%であるのに比してデリー市では15%を越えているのも、カトリック住民が多いからである。

出典堀越智『アイルランドの反乱: 白いニグロは叫ぶ』、1970年、三省堂、14ページ

こうした差別の根源はなにか。カトリック住民が「白いニグロ」と呼ばれて、低賃金労働者、産業予備軍であることと、北アイルランド政府が、外貨導入をさそう条件の一つに安価な労働力をうたっていること、さらに北アイルランドの工業が、戦後急速な発展をとげた航空機産業を除くと、在来の造船業やリネン工業の発展が行詰まって、外貨導入を図らねばならないことを合わせて考えると、差別は宗教的体裁をとっているが、差別政策の根源は、プロテスタント指導層にあるのではなく、アルスターのブルジョアジーにあると言えるだろう。

出典堀越智『アイルランドの反乱: 白いニグロは叫ぶ』、1970年、三省堂、14 - 15ページ

It cannot be doubted that Martin Luther King was the most influential figure in the Northern Irish struggle for human rights. ... His irrepressible fight against segregation and discrimination against blacks in housing and jobs resonated profoundly with Northern Irish Catholics who saw themselves as "the white negro".

デリーのボグサイドのミューラル(壁画)を手掛けている「ボグサイド・アーティスツ」のサイトより。

「人権を求める北アイルランドの闘争に、マーティン・ルーサー・キングほどの影響を与えた人物はいません。……住宅や就職に際し、黒人がさらされた分離と差別に対するキング牧師の戦いは、北アイルランドのカトリックにとっては他人事のようには聞こえませんでした」という解説で、NIのカトリックの人々は自分たちのことを「白いニグロ」と位置付けていた、とある。

ちなみに、「白いニグロ」という表現は、実はそれ自体は「黒人公民権運動」とは別の文脈でメディアに登場した。「ジャズなど黒人の文化にあこがれて、黒人気取りになっている白人連中」のことを、ノーマン・メイラーが分析した1957年のエッセイがそれだ。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_White_Negro

北アイルランドにおける「白いニグロ」はそれとはまったく異なる。プロテスタント(ユニオニスト)独占政権のもと、「二級市民」として差別されていたカトリック(ナショナリスト)の市民は、アラバマの黒人たちに共感し、インスピレーションを受け、自分たちを「差別される側」と位置付けて「白いニグロ」と呼んだ。

- 「北アイルランド公民権協会」 NICRA

1968年4月、NICRAは最初の抗議行動を組織(イースターのパレードの禁止への抗議)、同年8月にはほかの団体と共催でコールアイランドからダンガノンへのデモ行進を実施。これに対しユニオニスト側はカウンターデモを仕掛けた。デリーでNICRAの組織的な活動が確立されたのは同年10月のデモ行進以降のことだ。

1969年1月、デリーのカトリックの「ゲットー」の一角の壁に住民の1人が「ここより先、デリー解放区」と書いた。その後建物は取り壊され道路が整備されたが、壁は今も残る。
http://en.wikipedia.org/wiki/Free_Derry_Corner

1969年8月、毎年恒例のデリーのプロテスタントによる何百年も前の宗教色の強い戦争での勝利を記念する祭り(アプレンティス・ボーイズのパレード)で、この「カトリックのゲットー」をかするような形でプロテスタントの行進が行われ、抗議の群衆が警官隊と衝突、「ボグサイドの戦い」と呼ばれる事態に発展する。
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Bogside

このときにスピーチを行なう公民権活動家、バーナデット・デヴリンの姿が、フリー・デリー・コーナーのミューラルに描かれている。

バーナデット・デヴリンは1947年にティローン州に生まれた。ベルファストのクイーンズ大学の学生だった1968年に学生主導の公民権運動の組織に参画、大学からは除籍処分を食らうなどしつつ、21歳のとき1969年4月の英下院補選(現職の死去に伴うもの。ミッドアルスター選挙区)で当選し、「最も若い下院議員 Baby of the House」となった。翌年の総選挙でも引き続き当選し「無所属の社会主義者」として議席に座った彼女は、「ミニスカートのカストロ」とも呼ばれた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bernadette_Devlin
http://is.gd/UuR6K0

Bernadette (Devlin) McAliskey addressing the #BloodySunday rally today in #Derry See Tuesday's @derryjournal newspaper pic.twitter.com/7Hu6Jzgh

2013年1月27日(日)、デリーで行われたブラディ・サンデーのメモリアルでスピーチをするバーナデット・デヴリン。

1970年代、「未婚の母」となった彼女はカトリックの「支持」を失い、議席を失った。その後結婚してマカリスキー姓となっている(ので、ニュース検索時などは工夫が必要)。1981年1月には自宅にいたところをロイヤリスト武装勢力に襲われ7発も撃たれたが、辛くも一命を取り留めた。

1972年1月30日、バーナデット・デヴリンはNICRAのデモの組織者のひとりとして、デリーのデモでスピーチを行ない、後に「ブラディ・サンデー」と呼ばれることとなったあの事態を目撃した。

ドキュドラマのスタイルで当時の様子を再現した2002年の映画、『ブラディ・サンデー』でも、デヴリンの姿が確認できる。このスチールではこちらに顔を向けているアイヴァン・クーパー(ジェイムズ・ネスビット)の右後方にちらっと横顔が見えている。

1972年1月30日、日曜日

当日の実際の映像。最初の方はこの日に行われた「公民権デモ」の様子(移動遊園地の遊具が出て、子供が遊んでいたりするシーンから)。その後、ある一角でバリケードに気づいた人々が隊列から離れ、バリケードの兵士に絡んでいくところから、投石、放水車、催涙ガスくらいまで(映像で3分40秒くらいまで)は、「当時のデリーでは日常の光景」だったという。

この日が「特別な日」になるのはそのあと。背後に控えていた英軍パラ連隊が出てきたところから。

1つ上の映像から音声解説を外して、最後にデイリー神父と英軍パラの司令官のインタビューを付け加えた長い映像。

英軍に撃たれた少年を、男性4人が抱えて運び、カトリック教会のエドワード・デイリー神父が右手に白いハンカチ(「白旗」)を掲げて先導していくこの光景は、ボグサイドのフリー・デリー・コーナーのミューラルとして残されている。

"1972年1月30日の「ブラッディ・サンデー事件」を象徴する光景はいくつかある。その中でも最もアイコニックなのは、1人の負傷者を3人の男性が抱え、1人の男性が白いハンカチを振りながら彼らを先導している光景だ。"
http://nofrills.seesaa.net/article/113444195.html

この時に撃たれて運ばれていたジャッキー・ダディ(17歳)の写真を持つエドワード・デイリー神父(当時の肩書)。

ジャッキー・ダディは「ブラディ・サンデー」当日の13人の死者の最初の1人だった。

当局が目をつけていたデリーの「不良少年」たちのひとりだった。

ジャッキー・ダディは、「将来有望なボクサー」として期待されていた。(アイルランドは、2012年のロンドン五輪でも示されたように、ボクシングが強い。)

ジャッキーにちなんで名づけられた甥のジョンは、米国を拠点とするプロボクサーになった。2011年1月に引退するまでの戦績は、29勝2敗。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Duddy_%28boxer%29

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