1. まとめトップ

アンデス山脈飛行機遭難事故の奇跡の生還者。 苦渋の選択!

今から40年前、1972年10月13日(金)にその悲劇は起きた。ウルグアイ空軍571便がアンデス山脈に墜落したのだ。飛行機に乗っていたのは、試合のためアルゼンチンからチリへ向かうウルグアイのラグビーチームとその家族や知人を合わせた一行40名と乗員5名の計45名だった。

更新日: 2013年02月12日

85 お気に入り 155286 view
お気に入り追加

この記事は私がまとめました

飛行機に乗り合わせていたウルグアイのラグビーチーム

アンデス山脈での天候不良の為、アルゼンチンのメンドーサで一泊した一行は13日に再び飛行機に乗り込んだ。この日も悪天候で、山々を深く覆う雲の中に突入して間もなく峰と衝突。
ここはソスネアド峰とティンギリリカ火山 の間の人里はなれた山地であり、チリとアルゼンチンの国境にまたがる高度4,200メートルの地点だった。

吹き飛んだ右翼で垂直尾翼が切り取られ、胴体後部に穴が空いた。再度の衝突で左翼も無くなり、機体はただの空を飛ぶ胴体だけとなった。機体は、飛んできたプロペラによって切り裂かれたのちに、地面に衝突し、険しい崖を滑落して最終的に雪に埋まって停止した。

また機体の尾部は多くの荷物を積んだまま胴体とは分離して別の場所へ滑落した。乗客3名と乗員2名が機外に放り出され、9名が即死し、負傷が元で初日中に3名が死亡した。この時点で生存者は28名となった。

残った28名は凍てつくように寒い高山でどうやって生存するかという難問に直面した。防寒着や雪を踏み分ける防寒靴などの装備がなかった。雪眼炎 を防ぐサングラスもなく、最後の生存者のひとりである24歳のアドルフォ・"フィト"・ストラウチは、操縦室のサンバイザーを加工してサングラスを作り、目を守った。多くの人が墜落直後に席から放り出されたことによって足を骨折していたが、医療品もなく、生存した医大生2名が航空機の支柱で添え木を作った。

8日後には捜索中止

ウルグアイ、チリ、アルゼンチンの3ヶ国から成る捜索隊が捜索を開始したが、フェアチャイルド機の外装は白かったので、積雪に混じり合い、空からの発見は非常に困難だった。捜索は開始から8日後の10月21日に中止された。

10月22日(日)、事故から9日後。配給管理された食糧が尽き、自然植生植物も動物も雪で覆われている山には存在しなかった。

機体内で議論が行われ、ロベルト・カネッサは仲間の遺体を人肉食して生存を続けることを主張した。

何人もの生存者が食べることを拒否したが、ロベルト・カネッサが主導権を握った。


この決定は人肉食する相手のほとんどが彼らの親友・級友であったので軽い決定ではなかった。

墜落から11日後に、生存者のロイ・ハーレーは、機内にあったトランジスタラジオで捜索が中止されたというニュースを聞いた。

ニュースを聞くと、ロイの周りに居た生存者たちは、パラード以外全員すすり泣き、祈り始めた。 

パラードは冷静に西にそびえる山を見上げた。
グスターボ・ココ・ニコリッチは、機体から出て、彼らの顔を見て、彼らが何を聞いていたかを悟った。

そして、スーツケースとラガーシャツで薄暗い胴体の入り口へ登り、振り返ると「ほら、少年!」と叫んだ。

「朗報だ! ラジオを聞いた。捜索が中止された。」

機体の中は沈黙していた。皆は見込みのない状況に涙した。パエスは怒って「一体それのどこが朗報だ?」と叫んだ。

「その意味するところは」とニコリッチは言った。

「我々が自分たちでここを脱出するということだ。」


この1人の少年のおかげで、完全な絶望に陥ることは防がれた

救援を求めるために、コックピット無線機を使用しようとしたが、無線機の出力が全くないことが判明した。その後死亡する航空機関士は、墜落後に脱落した機体の尾部にバッテリーが積み込まれていたために電源がなくなり通信ができないと説明した。

生存者のひとりナンド・パラードの著書で2006年に出版された『アンデスの奇跡:72日間を生き延びて山脈から生還 』

「高山では、身体に必要なエネルギーは膨大だった。…新たな食料を発見するという望みはなく、我々は本気で飢えていた。我々は新たな食料を探し求めて機内を捜索した。…何度も胴体の中を探し回り、モーゼルで山を登った。我々は、荷物の断片である革片を、それに使われている化学物質が身体に与える益よりも害が大きいことを知りながら食べようとした。我々は藁を見つけようとして多くの座席やクッションを切り裂いたが、藁は使われていないことがわかった。…我々は何度も同じ結論に達した。我々が着ていた衣服は食べられないし、アルミニウム、プラスチック、氷、岩石以外に何もここにはなかった。」

乗客は全員カトリック教徒だったが、ピエス・ポール・リードが、問題となっている行為は聖餐(せいさん)と同一視されると主張した。それは唯一の生存の方法であった。他の人々は、そのことを祝福したが救出後にその行為が発覚したときには態度を翻している。

すさまじい勢いの雪崩発生

10月29日(日)生存者たちが機体の中で眠りにつこうとしていたとき、雪崩がすさまじい勢いで機体の中に流れ込み、機体の中で横たわっていた全員を埋め尽くした。比較的浅く埋まった人は、雪で埋まった人を救おうとしたが、19人の生存者を残して8人が死亡した(死亡26名、生存19名)。3日間、機体は数フィートの雪の下に埋まり、生存者たちは非常に狭く閉じ込められた中で生き延びた。

そして運命の12月21日、救助を求め墜落現場から2度の移動を試みていた、カネッサとパラードは、ついに農夫と接触することに成功。

農夫は2人を村へと導いてくれた。2人が村に到着したのは、山中をさまよい始めて10日目、飛行機墜落から72日目のことだった

救援のヘリコプターにより、先に救出された2人を除き、生き残った14人が救出されることとなる。ところが、彼らを待っていたのは、人肉を食べて生き残った者に対する世間の好奇の目であった。

1