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【将棋】伝説的研究会 島研【羽生善治】

伝説的研究会 島研についてまとめました。『将棋世界』での4人の対談内容が面白いです。

更新日: 2013年02月19日

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この記事は私がまとめました

YJKKZAさん

◆島研とは

1986年(昭和61年)頃〜1990年(平成2年)頃
島朗が主宰し、羽生善治・森内俊之・佐藤康光が参加していた伝説的研究会

昭和61年夏、当時24歳六段で若手の島朗が、奨励会(将棋プロの養成所)三段だった16歳の森内俊之と、奨励会二段だった17歳の佐藤康光を誘い、通称“島研”と呼ばれる研究会が始まった。
1年後には先に四段になっていた羽生善治も加わった。

研究は一人で行うのが普通であった当時、島朗は若手との研究会や、パソコンによるデータ管理など、将棋界に新風を吹き込んだ。

この島研時代の研究量は他を圧倒していた。NHK杯の解説で、指された手に対して数年前の対局の棋譜を並べだすこともよくあった。

島研のメンバーはのちに全員が竜王位を経験し、島以外は全員が名人位についた。

若手3人はその後、名人や竜王になるなどタイトル戦線で大活躍することから、才能を見抜いた島九段の眼力が評判になった。

■将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』■

―島研が誕生したそもそもの始まりからお願いします。

島 随分前の話なのでよく覚えていないんですよ(笑)。最初は佐藤さんと森内さんの3人で始めたんです。たぶん、2人にはぼくの方から何らかのアプローチをしたんでしょう。
佐藤 ぼくが二段で森内さんが三段の頃ですね。
森内 いやいや、ぼくはまだ三段でなかったです(笑)。初段ぐらいだったと。
島 初段ってことはないでしょう(笑)。
森内 じゃあ二段ですねきっと。
島 昭和60年じゃないかな多分。『聖』という漫画では、私が奨励会へ彼らを見に行ったことになっていますけどね(笑)。
佐藤 でも、よくいらしてましたよね。中田功さんの将棋とかをよくご覧になっていました。
島 自分も若かったし、奨励会を見るのは楽しいですから。ただ勉強に行ったと言えば聞こえはいいんですが、遊び仲間を捜しに行っていた意味もあったのでは(笑)

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―当時の2人の印象は?

島 将棋とともに、やはり人間の素晴らしさです。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―当時は研究会自体が珍しい時代だったんですか。

島 どうなんでしょう。それなりにはあったんじゃないですか。
佐藤 そうですね。奨励会同士でも、羽生さんとかやっていましたから。
島 だから島研だけが特別というわけではないんですね。この3人のメンバーでは1年間ぐらいやりましたでしょうか。月に1、2回のペースで。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―3人でどんな研究を?実戦だと1人余ってしまうでしょう。

島 負けた人が記録を取るんです。
羽生 えっ、島さんも記録を取っていたんですか?
森内 ぼくたちはまだ奨励会員だったので、記録係の人に読んでもらう秒読みにまだ慣れていなかったんです。そういう配慮もあって。
島 奨励会を抜けるための練習は、彼らにはまったく必要ありませんでした。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―何か規律みたいなものは?出し惜しみはしないとか(笑)

佐藤 出し惜しみというか、当時はまだ定跡とかよく分からなかったですから。ぼくなんか奨励会時代は、将棋の勉強で序盤の研究はしたことがなかったです。
島・森内・羽生 (笑)
森内 力将棋ですからね(笑)。
佐藤 四段になってからは、8割がたは序盤の研究をするようになりましたが。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―2人の将棋を見てどう感じましたか。

島 いろいろな意味でスケールが違うっていうことを痛感しました。勝利を求めているようで将棋の本質を求めている。未来の将棋を先取りしていたという感じはしました。スピードボールに慣れてしまったので、研究会を始めてから公式戦がすごく楽になりました。当時六段で、自分としては最終目標の位置で満足していたんですが、それからより高い位置を目指す気持ちが出てきました。これからは進んでいる後輩の優れた人の将棋をいろいろ勉強しなければ駄目だと感じました。テクニックでは彼らより上回っていたかもしれないですが、スピードでは敵わないなと実感しました。
(中略)
島 島研のメンバーに入ってもらうように羽生さんに声をかけて頂いたのは佐藤さんと森内さんだったと思います。
佐藤 いや、島さんでしょう。
羽生 ええ、それしかないという気もするんですけど(笑)。でも、正確には覚えていないですね。
島 いずれにしろ、そろそろ研究会のスタイルを変えてみようということで羽生さんにお願いしたんですね。
森内 4人体制になったのは昭和62年頃ですね。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―何年ぐらい続いたんですか。

佐藤 数字のことを聞かれるのが一番困ります(笑)。
島 覚えてないですね。ノートとか取っていないので・・・。2年ぐらいかな。
森内 そのわりには積立金が随分貯まりましたよね。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―羽生さんが初めて竜王を取った時はやっていましたか。平成元年の12月ですが。

佐藤 さすがにタイトル戦を戦う前はやってないでしょう。
島 あの後も罰金をどんどん貯めていったような気がします。
羽生 やってなくても月の会費は取っていましたよね。
佐藤 それに公式戦で負けても罰金を取られていたような(笑)。
島 私は竜王の時に1勝5敗で、ひと月5万円払った記憶があるんですよ。負け越し4つで、月会費が1万円なので。
佐藤 棋戦で優勝したりすると、さらに寄付しなくてはいけないんです。
島 勝つ人も負ける人もまんべんなく払うようなシステムになっているんです。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―場所は島邸で?

島 私が一人で暮らしていた時です。
羽生 マンションの一階がケーキ屋さんなので、ケーキを買ってお茶を飲むというの定番だったんです。
島 お酒は飲んだ記憶はないんですが、甘い物は食べましたね。まだ3人が成人に達するかどうかの頃でしたし、私自身、酒席とか打ち上げの席は苦手ですので、そういう雰囲気にもならなかったです。そもそもみんなで、夕食って食べたことあったっけ?
森内 記憶にないですね。お昼ご飯はみんなでとりますが。
島 あまり関係が濃くなり過ぎるのもよくない気がするので、ドライな付き合い方がいいかなと思います。その方が長続きするんじゃないでしょうか。
羽生 そうですね。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―島さんが初代竜王になった時、メンバーの中でお祝いとか特別なことは。

島 別に・・・(笑)。今でもそうですが、誰かにおめでたいことがあっても基本的に「淡々と」いうのがテーマなので。だから羽生さんと竜王戦を初めて戦った時も、何もありませんでした。終わればそれで、わだかまりもないですし。それに棋士が棋士をお祝いする必要も感じません。ひと言「おめでとう」と言えばそれでいいかなと思います。
森内 仲間がタイトルを取っても、関係が変わるわけではなく、肩書きが変わるだけなので、別に・・・。やはり「淡々と」という感じですかね。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―羽生さんとの竜王戦は?

島 楽しかったです。対局が終わった後にいつもモノポリーとかやってまして、竜王戦ご一行様で楽しい旅行をしていた感じでした。今では考えられませんね(笑)。
羽生 毎局やっていたような気がします(笑)。それが初めてのタイトル戦でしたが、タイトル戦っていつもこんな雰囲気でやっているのかなと思いました(笑)。でも、あの時が特殊だったんですね。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―羽生さんの世代は、当時チャイルドブランドとかいわれてましたね。

島 あれは田中寅彦先生が作った言葉だと思います。ぼくは「恐るべき子どもたち」というのは言ったような気がしますが。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―そういう特殊な人間という見方をされたことについては。

佐藤 ぼくは、基本的にマスコミに対して関心があまりないので(笑)。
羽生 本当?(笑)
佐藤 だから、ぼくって書かれやすいんですよ、先崎さんとかに(笑)。基本的にマスコミに対して反応を示さないタイプなんです。だから当時はそのことに対して意識することはなかったですね。
羽生 ぼくも確かに何とも思ってなかったっていう感じなんです(笑)。
森内 ああ、そういうふうに呼んでいるんだっていう感じで、そんなに気にはしなかったですね。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―平成元年に島さんが竜王になって以降は、島研は不定期になったんですか。

島 結構やっていたような気がしますけど・・・私も翌年に結婚したりして、ペースは落ちたのかな。
佐藤 でも、長期に休んだという記憶はないですね。
羽生 いつ頃までやっていたんですかね。
島 3人が公式戦で頻繁に当たるようになったので、気まずいかなと思ってやめたような気がするんです。だから、いつっていうのははっきり覚えてないです。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―将棋以外で思い出はありますか。

島 会費がかなり貯まったので、一度4人で伊豆山へ旅行に行きました。平成3、4年頃かな?
羽生 島さんの車に乗せてもらって行った記憶があります。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―何泊ですか。

島 1泊ですよ。すごく味のない旅行なんですけどね。ただカードをしていただけのような(笑)。
羽生 観光するような場所ではなく、周りにも何もなかったですから(笑)。
島 落ち着いてしっとりとした名旅館です。作家の田中康夫さんが当時かなりお気に入りでした。
羽生 麻雀卓を借りようとしたら断られました(笑)。相当異色な客だったはずなんです。男4人で行って1泊だけですからね(笑)。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

―その時の写真はありますか。

島 いや、みんなの心の中にしか思い出は残さない主義なんです。
羽生 写真を撮るという習慣の人は一人もいなかったと思いますけど(笑)。
佐藤 当時は、そういう概念がなかったんです(笑)。温泉に入ってもありがたみを感じませんでした。
森内 サクサク食べて、トランプをやったような気がしますね(笑)。
島 別に飲んで人生を語ろうという気もないし・・・。たぶん、これからもないでしょう(笑)。基本的にあっさりしている方がいいと思います。

出典将棋世界2002年8月号『伝説の「島研」同窓会』

■将棋世界1998年9月号『佐藤康光新名人誕生記念 対談 島朗八段&佐藤康光名人』■

島 室岡さんとは随分昔から研究会をやられていると聞いていますが。
佐藤 一番最初は奨励会に入って間もないころで、10人から20人が月に1回くらい集まって、会費制で勝者総取りというのがありましてそれが室岡研の前身なんです。羽生さん、先崎さん、森内さんも参加していて…。
島 将棋界では私が主催していた「島研」のことをいろいろ宣伝して頂いた時があり名前が知られていますが、実際のところは佐藤さんにしても羽生さん森内さんにしても、島研だけでなく他にもいろいろ研究会をやっていたはずだから別に島研だけではないわけですよね(笑)。佐藤名人は影響としては私よりはるかに室岡さんの方が強いと思うんですよね。
佐藤 室岡先生と島先生には奨励会時代から本当に影響を受けましたね。

出典将棋世界1998年9月号『佐藤康光新名人誕生記念 対談 島朗八段&佐藤康光名人』

-島さんが初めて佐藤さんに出会われたのはいつ頃ですか?

島 二段か三段の頃だと思うんですけど、正直に言って実は最初の出会いをよく覚えてないんですよ。
佐藤 たぶん森内さんにこういう研究会があるよって誘われて島先生のマンションに行ったのが最初ですね。僕と森内さんが二段の時で島先生が六段の時でしたか。
島 私の場合、高柳門下で兄弟子が多くて、年下の子と付き合うことが少なかったので、非常に新鮮な気持ちがありました。それ以来後輩の方との付き合いが盛んになってきました。やっぱりみんな奨励会の時から粒ぞろいでしたからね。だから佐藤、羽生、森内、郷田の年代って揃っているじゃないですか。だから私たちの時の二、三段と比べたら全然レベルが違うと思いますよ。

出典将棋世界1998年9月号『佐藤康光新名人誕生記念 対談 島朗八段&佐藤康光名人』

佐藤 私も先輩のことはちょっとわからないですけど、今の四段は僕が四段の時より強いと思いますけどね。将棋がしっかりしてるというか。ただやはり僕らの年代には羽生さんというすごい人がいましたので、やっぱり(笑)。最初は3人で、1人記録係で勝ち抜き戦みたいな感じだったんです。僕と森内さんが四段になってから羽生さんが入られて。…島先生に気を遣って頂いたんです。同期ですからやっぱり奨励会と棋士だと、なんて言うんですか多少感じるところが違いますからね。そういうところで気を遣って頂いて。
島 いえいえとんでもないです。ただ、まだいろいろ試行錯誤の段階でしたね。僕も六段になっていましたが棋士になると記録はなかなか採らないじゃないですか。島研は負けた人が記録を採るんですが、その点は公平なんですよ。でも罰金制にしたのでお金をかなり貯めましてね。
佐藤 相当きつい罰金でしたよ。研究会での罰金を払うのと別に、公式戦の罰金がきついんですよ。たしかその月に負け越すと、段位×敗局数×千円、だから僕が四段の時、1勝4敗で3局負け越すと一万二千円…。
島 まあ佐藤さんはそんなことなかったですけど。

出典将棋世界1998年9月号『佐藤康光新名人誕生記念 対談 島朗八段&佐藤康光名人』

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