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xybernalさん

少年愛は世界の歴史上どういう扱いを受けてきたのか?
いくつかピックアップしてみました。

少年愛(しょうねんあい,英語:Pederasty,ドイツ語:Knabenliebe,ギリシア語:Παιδεραστία) とは、成人男性と思春期前後の少年の間の恋愛関係、性的関係である。プラトニックなものもあるが、一般に性的交渉が前提となっている。

ギリシャ語:Παιδεραστία → ローマ字で Paiderastia。
Παιδιά(Paidia-少年)+ εραστής(Erastis-恋人)から。

◆古代ギリシャ

口づけをかわす少年と男性(ルーヴル美術館)

ヨーロッパで「Greek love」と言えば同性愛のこと。1970年代以降のアメリカのゲイ・ムーブメントの担い手たちにとっても、古代ギリシャは心のよりどころ。

ギリシャにおける同性愛は、成人男性と思春期の若者という特定の世代間に生ずる期間限定の愛でした。

青年は成人男性から求愛を受け、略奪されるのですが、それは名誉なことであって、誰からも声が掛からないことは大変な恥でした。

スパルタ軍はギリシャ世界でもっとも勇敢で強力な軍隊でした。日々のトレーニングはもちろん、それ以上に肉体を通した兵士間の強い結びつきがありました。彼らはいくら危険な事態に陥っても、自分の恋人を守るために決して持ち場を離れなかったとか。

風神ゼフィロスと美青年ヒュアキントス。

ヒュアキントスが流した血から咲いた花が
ヒヤシンスです。

アテナイ(アテネ)では紀元前480年頃までに、男性同士の同性愛があたりまえの習慣になっていたといわれているが、これはあくまで成人と少年との間に限られていたようだ。成人男性同士の同性愛は不道徳であると非難された。

しかし、時代が経つとともに、成人同士の同性愛や性交も、社会的には非難されながらも盛んになっていき、若者の売春も増えていった。

紀元前5世紀後半の喜劇では、同性愛売春の習慣が当然のことのように描かれている。そのため、少年の売春を予防する厳しい法律が生まれたが、年長者の恋人から社会的恩恵を受けたり愛の贈り物をされたりといった「援助交際」と、純粋な売春との区別はなかなか難しかったらしい。

アテナイでは、妻帯者である年長の市民が、同じ市民階級の少年を心身ともに愛し、教え導くことで、一人前の市民あるいは戦士に育てることが市民の義務であるとみなされていました。

つまり今の同性愛とは違い、先生役の既婚の年長者が少年を教育する一環として同性愛が行われていたということです。
少年たちは大人になると結婚して家庭をもち、また自分が先生役になって少年を愛したのです。

ソクラテスは数多くの青少年を口説き落とす達人であったので、
「しびれエイ」とのあだ名を持っていた。

◆古代ローマ

古代ローマの帝政時代は性道徳が乱れに乱れたとか。

男色については、古代ギリシャの少年愛にみられるような倫理的な面は陰を潜め、もっぱら快楽主義的な面が強調されるようになります。

歴代の皇帝は、女色だけでなく男色も好む両刀使いが大半で、シーザーから数えて15代までのローマ皇帝のうち、男色に関心を持たなかったのはクラウディウス帝だけだったといわれています。

古代ローマでは、皇帝ネロが、異なる時期にそれぞれ異なる男性を相手に結婚した記録がある。エラガバルス帝も男性と関係を持ったと伝えられている。キリスト教化される以前の古代ローマ人にとって、同性同士の性行為は何らタブーではなかったようだ。

皇帝ネロは、皇妃ポッパエアの死後、16歳前後であったと考えられる絶世の美少年スポルスを見出し、これを去勢して女装させ、みずからの第三の妃に据えた。

五賢帝のなかでも、もっとも英邁で精神の幅に広がりがあったと考えられるハドリアヌスは、青年アンティノウスを愛したが、アンティノウスは理由不明なままみずから命を絶った。ハドリアヌスはこれを悲しみ、一つの都市にアンティノウスの名を付け、彼が愛した青年の名を永遠のものとしようとした。

ハドリアヌスはテルマエ・ロマエで出てきましたね。

女装少年?
アフロディトスの像。

堕落した古代ローマを描いたサテュリコンという小説があります。
成立時期は諸説ありますが、紀元1~3世紀と言われています。

1969年に伊仏合作でフェデリコ・フェリーニにより映画化され、
日本では『サテリコン』の題名で公開されました。

◆イスラム世界

イスラーム法学上、美少年に魅惑されることはごく一般的で自然なものとして扱われる。ハンバル派の法学者イブン・ジャウズィー(1200年没)は「美しい少年あるいは若者を見て欲望を抱いたことがないと主張する者は虚偽をいう者である。彼を信じうるとするならば、それは彼が獣であり、人間ではない場合である」と言ったとされる。

法学者のスフヤーン・アッサウリー(783年頃没)は性的誘惑に関して「すべての女性が一匹の悪魔を連れるとするならば、美少年は17匹を連れている」という。

預言者のハディース(伝承)はけがれのない愛は楽園への途の一つであると断じる。すなわち「愛し、純潔さを保ち、その秘を秘して死ぬ者は殉教者である」。こうして、イスラームにおける少年への愛は、破滅への途というキリスト教における理解とは対照的に、抑制さえされていれば天国への途ともなるものとなるのである。

「アラビアン・ナイト」の物語には、女色のエピソードだけでなく、男色=少年愛のエピソードが数多く含まれています。この事実は、イスラム世界でいかに少年愛が盛んであったかをよく示しています。

実際、イスラム社会と同性愛は切っても切れない関係があり、19世紀に西洋列強によって植民地化され、同性愛を罪悪視するキリスト教思想が流れ込んでくるまでは、男色の習慣がかなり大っぴらにみられたことが、当時のイスラム世界を訪れた西洋人の旅行記などに記されています。

預言者モハメッド自身、男色にたいしては寛容だったといわれています。
モハメッドの言行を記録した言行録「ハディース」によると、モハメッド自身が属する部族、カライシ族には「性倒錯者」が多く、その内の一人は話が面白いのでモハメッドのお気に入りだったといわれています。多分おすぎとピーコみたいなタイプの人間だったのでしょう。

モハメッドは男性、特に美少年の性的な魅力については十分に認識していた形跡があります。というのは、多くのハディースで、モハメッドは信徒たちに美少年をあまり見つめすぎないように警告を発しているからです。
美少年はあまりに魅力的なので、彼らを見つめすぎると、誘惑にかられて罪を犯してしまう危険があるというのです!

詩人アブー・ヌワースは、酒を飲むことの喜びを公然とうたい、その作品は今日も残っているが、うたのなかで、当時の酒店には、紅顔の美少年が酒の汲み手として酒席にあり、美少年と同性愛を堪能したことが謳歌されている。

ペルシアの大学者であり詩人であるオマル・ハイヤームは、また『ルバイヤート』のなかで、酒を飲む喜びを高らかにうたい、サーキー(酒姫)が差し出す酒杯の甘美さをうたう。またサーキーの愛らしさや魅力を褒め称える。

サーキー:酒姫――酒の酌をする侍者。それは普通は女でなくて紅顔の美少年で、よく同性愛の対象とされた。

ペルシア宮廷への英国大使秘書トマス・ハーバートは、21歳であった1627年から1629年のいずれかの時点でのシャー・アッバースの宮廷の様子を報告している。「酌人の少年たちがいた。彼らは金の胴着をまとい、きらめく飾りをつけた豊かなターバンをつけ、上等のサンダルをはいている。肩に掛かる髪はカールし、くるくるとした目、そしてうっすらと染まった頬をしている」。

この時代は、男性売春宿アムラード・ハーネ(髭の無い者の家)が法的に公認され、課税されていた時代でもある。ジャン・シャルダンは同じ時代ペルシアを旅し「女性を提供しない数多くの男性売春宿を見た」と報告している。17世紀後半に旅したジョン・フライヤーは「ペルシア人は謙虚さを投げ出し、女性と同様少年たちをも切望している」との感をもっている。

20世紀以降、イスラム原理主義の勃興で同性愛に対しては非常に厳しくなり、サウジアラビアやイラン、北アフリカのイスラム国家では死刑を含め、同性愛に対しては非常に厳しい態度で臨んでいる。その一方、トルコやヨルダン、イラク戦争以降のイラクでは同性愛は合法化されている。

◆日本

衆道(しゅどう)とは、日本においての、男性による同性愛・少年愛の名称および形態である。「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、別名に「若道」(じゃくどう/にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)がある。

衆道の日本における最初の記録は、日本書紀の神功皇后の項にある。
また「続日本紀」には、天武天皇の孫である道祖王が、聖武天皇の喪中に侍児と男色を行ったとして廃太子とされた記述が見える。

日本への制度としての男色の渡来は、仏教の伝来とを同じ時期であるとされる。仏教の戒律には、僧侶が女と性交する事(女色)を忌避する「女犯」というものがあった。そのため、女色に代わって男色が寺社で行われるようになった。

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