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世界一のサイドバックへ!長友佑都、怒涛の軌跡

今では日本代表不動のサイドバック、セリエAインテルでも絶対的レギュラーの長友。しかし順風満帆な選手人生ではなかった。

更新日: 2014年12月11日

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iwaisakuraさん

小学校1年生時にサッカーを始め、6年時に愛媛FCジュニアユースのセレクションを受けるも落選

西条市立北中学校時代に恩師である井上博に出会い、この時期の走り込みにより現在の豊富な運動量のベースが作られた

サッカーの強豪東福岡高校では、森重潤也のもと2年生時に1ボランチとしてレギュラー入りしたが、地区選抜などには選ばれず全国的には無名だったためスポーツ推薦を得られず、進学先の明治大学政治経済学部には指定校推薦で入学した

2005年、明治大学サッカー部入部直後に椎間板ヘルニアを発症し、試合に出場できずスタンドで応援する日々が続いた。この時期、サッカーができないストレスでパチンコなど遊興に溺れた日々もあったが、実姉や大学の同窓生の叱咤激励もあってこれを乗り越えることができたと語っている

大学2年時の2006年にサイドハーフから右サイドバックにコンバートされた。明治大学の神川明彦監督は長友を右サイドバックにコンバートした理由について、フィジカルの強さ、走力、攻撃の完結力を生かすためであると語っている

ここから急速に頭角を現し、全日本大学選抜やユニバーシアード代表にも選出された

2007年3月に行われたFC東京との練習試合におけるFWのリチェーリとのマッチアップが当時の原博実監督など東京関係者の関心を引き、5月から特別指定選手としてFC東京の練習に参加。7月8日のナビスコカップ準々決勝の対横浜FM戦で途中起用され公式戦デビューを果たす。さらにU-22日本代表として北京オリンピックアジア二次予選のマレーシア戦に選出。右サイドバックで出場し、突破からの先制点に加えてPKを獲得するなどの活躍を見せた。

大学卒業を待たずしてプロに進むことを決意し、2008年に在学したままサッカー部を退部してFC東京と正式契約を結んだ。大学を1年残して退部し東京とのプロ契約を決断した理由の一つに、「女手一人で自分を含む3兄弟を育てる母に経済的に早く楽をさせたかった」ことを挙げている

岡田武史監督率いる日本代表に初招集され、5月24日のキリンカップコートジボワール戦にフル出場して代表初キャップを記録。11月13日のキリンチャレンジカップ・シリア戦では先制のミドルシュートを決め代表初得点を記録した。

2010年6月に開催された2010 FIFAワールドカップでは、全4試合に左サイドバックでフル出場を果たした

「相手が強ければ強いほど燃えてくる。エトーを止めて『アイツ、誰だ?』と世界を驚かせたい」

ワールドカップでの活躍が評価され、セリエAに20シーズンぶりに昇格したACチェゼーナへ買い取りオプション付きでのレンタル移籍が決定

チェゼーナでは自ら希望した背番号5番を譲り受け、左サイドバックとして開幕戦(対ローマ戦)からフル出場。マッシモ・フィッカデンティ監督からは「長友は左右どちらもいいが、ポゼッションとビジョンの点では左の方がいい」と評され[34]、試合に応じ両サイドで起用(試合展開によっては前線に入る)され、11月21日の第13節パレルモ戦ではチェゼーナ加入以来初となるアシストを決めた

2011年1月に開催されたAFCアジアカップ2011では全6試合にフル出場(日本代表では長友と今野泰幸のみ)し、決勝のオーストラリア戦では試合途中に左サイドバックから左サイドハーフにポジションを上げて、李忠成の決勝点をアシストするなど日本代表のアジア制覇に貢献した

2011年1月31日、移籍金約2億円でチェゼーナへ完全移籍し、さらに冬の移籍市場の最終日となった同日、ダビデ・サントンとのトレードで、インテルへのシーズン終了までのレンタルが決定した。背番号は55番。2月6日、セリエA第24節のローマ戦でインテルでのデビューを飾り、3月6日の第28節ジェノア戦にてセリエA初得点を決めた。

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