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29年間戦い続けた「その後」の小野田寛郎さんから学ぶ、人間の在り方

その後の小野田さんがどんな思いで日本を見ていたか。「生まれてきたからには死ぬのは嫌です」そんな当たり前な言葉なのに説得力があります。小野田さんの考え方に触れることで日本の戦前・戦中・戦後・現在そして未来までを考えさせてくれます。

更新日: 2017年02月14日

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donotさん

▼2つの矛盾を抱えたまま、戦地へ

1944年12月、遊撃戦指導の任務

「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも、5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。

それまで兵隊が1人でも残っている間は、ヤシの実を齧ってでもその兵隊を使って頑張ってくれ。いいか、重ねて言うが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」と命令を受けた。

派遣前に母と交わした言葉

派遣前、母親からは「敵の捕虜となる恐れがあるときには、この短刀で立派な最後を遂げてください」と言われ短刀を渡された。

1974年3月12日、大東亜戦争終結を知らずフィリピンのルバング島で29年間戦闘を続けていた小野田寛郎さんが帰還。

帰国後の小野田寛郎さんの言葉

私は戦場での三十年、生きる意味を真剣に考えた
戦前、人々は命を惜しむなを教えられ、死を覚悟して生きた
戦後、日本人は何かを命がけでやることを否定してしまった
覚悟しないで生きられる時代は、いい時代である
だが、死を意識しないことで、日本人は生きることをおろそかにしてしまっていないだろうか

▼帰国後の生活

帰国後の環境の変化

・「軍人精神の権化」、「軍国主義の亡霊」といった批判
・父親との不仲や一部マスコミの虚偽報道
・マスコミのヘリがゲリラ戦時の敵軍ヘリと重なって悩まされた時期もあった

生きて帰ってきたんだから、働きゃいいでしょ

小野田さんが一日も早く実現したかった、島田伍長と小塚一等兵への墓参りと遺族への謝罪、それが叶うまでには日本に戻ってから1ケ月近くが経っていた。

小野田さんには政府から見舞金が寄せられた。その見舞金を靖国神社に寄付した。一緒に戦って死んだんですもんね。それを軍国主義に加担するなんて言われたら。

そんな人間と一緒にいたくない。それがブラジルへ移住した理由。

だれも好き好んで戦争をしたわけじゃない。

▼ブラジル移住を決意して再び日本を離れる

53才の時、昭和50年、永住を心に決めてブラジルへ渡る。

喧嘩すると勝たなきゃいけない。だから、離れることを選んだ。喧嘩したくないから。

自己満足かもしれませんけどね。

敬愛すべき日本人としてブラジルに受け入れられる

2004年12月、日本人として初めてサントス・ドゥモン勲章を受賞。これは、ブラジル空軍が民間人に授与する勲章の中では最高位である。

小さいことで悩んでみたって、そこで止まったら生きられないわけですから。目的がなければくじけるよ。目的があれば、切り捨てが効くんですよ。目標があれば思いきれる。

▼新たな目標

祖国のため健全な日本人を育成したい

再び日本に目を向けるきっかけになったのは、1980年に川崎で起こった「金属バット殺害事件」凶悪な少年犯罪が多発する現代日本社会に心を痛めた。

子供にしっかりしてほしい。不幸にならないように子供が希望を持ってくれれば、希望が目的になるから。

今の想い

苦しかろうと、何しようと、確かに教訓的なものは覚えています。だからどうっていうんじゃない。次にただ利用するだけだ。

あの時は苦しかったなと後ろを振り向かない。今は子供たちの役に立ちたいと思うだけ。

人生やり直したいですか?という質問に対して

やり直したって、どうせ自分の思うようにいかないんだから(笑)

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