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宮崎駿監督作品「風立ちぬ」主人公のモデル堀越二郎とは【戦闘機 ゼロ戦 雷電 烈風など設計】

太平洋戦争で使われたゼロ戦の設計などで知られる航空技術者、堀越二郎氏を主人公のモデルにしたスタジオジブリの映画「風立ちぬ」は2013年夏公開。

更新日: 2015年04月26日

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hina0101さん

▼スタジオジブリ新作「風立ちぬ」

堀越二郎と堀辰雄に敬意を表して。

いざ 生きめやも。

『風立ちぬ』(かぜたちぬ)は、宮崎駿による日本の漫画、およびそれを原作としたアニメーション映画。『モデルグラフィックス』(大日本絵画)において、2009年4月号から2010年1月号まで連載された。映画は2013年夏に公開される予定。

実在の人物である堀越二郎をモデルに、その半生を描いた作品であるが、堀辰雄の小説『風立ちぬ』からの着想も盛り込まれている。そのため、映画のポスターには、両名の名を挙げ「堀越二郎と堀辰雄に敬意を表して」と記されている。実際のエピソードを下敷きにしつつもオリジナル要素を盛り込んだストーリーが展開されるため、堀越の遺族に対して事前に相談し了解を得ている。主人公の性格など人物像にもオリジナル要素が盛り込まれているが、その点についても堀越の令息は「そんなことは無論構わない」と快諾した。なお、宮崎が監督した作品で、実在の人物を主人公とするのは初めてである。

この少年こそ、後の堀越二郎になるのである。

▼主人公のモデル 堀越二郎

三菱九六式艦上戦闘機の設計に於いて革新的な設計を行うが、むしろ零式艦上戦闘機の設計主任として有名。
戦前には七試艦上戦闘機、九試単座戦闘機(後の九六式艦上戦闘機)、戦時中は零式艦上戦闘機を含め、雷電、烈風と数は少ないものの、後世に語り伝えられる名機の設計を手掛けた。戦後は木村秀政らとともにYS-11の設計に参加した。

生年月日: 1903年6月22日
生まれ: 群馬県 藤岡市
死没: 1982年1月11日

群馬県出身
東京帝国大学工学部航空学科をそれぞれ首席卒業
三菱内燃機製造株式会社(三菱重工業)就職
戦闘機、ゼロ戦、雷電、烈風などを設計

こんな経歴を持つ“堀越二郎”の人生を、恋愛模様を交えて描くのが、
今作の宮崎駿監督作品「風立ちぬ」です。

藤岡中学校、第一高等学校、東京帝国大学工学部航空学科と進学し、それぞれ「首席」で卒業している。就職は、三菱内燃機製造(現在の三菱重工業)に入社。

藤岡の旧制中学に通っていたころには、『ほかの生徒に合わせていると自分に合った勉強ができない』といったことを先生にもらしていたようです」

設計主務者・堀越二郎自身は、その零戦には一度も乗ったことはなかったという。

長男の雅郎さん(75)が語る堀越さんは、自慢のライカで家族を写すのが好きな普通の父親。
機体を軽くするため、防弾性能がなかった零戦に戦後、「人命軽視」と批判が出た時も、「(防弾用の鋼板を)外さなきや性能は出せっこねえ」と声を荒らげるなど、手掛けた飛行機への愛着は人一倍だった。

出典中日新聞 2013.2.7

エンジンが気に食わなかったので、海軍の方針に反対してエンジンを換えさせたというエピソードもある。軍に一設計者がたてつくなんて、当時は考えられません

大変几帳面な性格だったようで、自分が乗った客船の食堂のメニューを集めて保管しておく、領収証も一枚一枚保存、布団を敷くときには必ず部屋の壁と平行になるように敷くなど、と言ったエピソードがある。

氏は民間人ですが、太平洋戦争における最大の功労者であり、現在の日本の技術立国の先魁となった偉人として多くの人に知ってもらいたいです。

■ 堀越二郎が設計した機体

▼ 七試艦上戦闘機の設計

昭和7年度から始まる海軍機の試製3ヵ年計画の一環として、九〇式艦上戦闘機の更新を目的として、三菱、中島二社へ競争試作の形で発注された。

同3カ年計画中で予定されていた八試複座艦上戦闘機(八試複戦)との兼ね合いから、「七試単戦」とも呼ばれた。この時期、戦闘機の設計は複葉から単葉への移行期にあったため、中島は同社設計のパラソル翼単葉の陸軍九一式戦闘機を海軍の要求仕様に沿って改設計したものを提示したが、三菱は七試艦戦をより進歩的な低翼単葉で設計した。

競合した中島機と同様、兵器採用されることなく試作のみに終わった。

▼ 九試単座戦闘機の設計

1934年(昭和9年)、三菱重工と中島飛行機の両社に試作指示が出され、1935年(昭和10年)に試作機が完成。審査の結果、三菱機が採用された。日本海軍初の全金属単葉戦闘機であり、それまでは外国機のコピーの域を出なかった国産機が一躍世界水準を超えることになったエポックメーキングな機体である。

▼ 九六式艦上戦闘機の設計

日本海軍最初の全金属単葉戦闘機。ほぼ同時に設計・製作された九六式陸上攻撃機と並んで、欧米各国の模倣を脱して、日本独自の設計思想の下に制作された最初の機体。連合軍のコードネームは「クロード(Claude)」。

▼ 零式艦上戦闘機の設計

大日本帝国海軍の主力艦上戦闘機。零戦(ぜろせん、れいせん。“ゼロ戦”とも)の略称で知られている。海軍の艦上戦闘機としては実質的に最終型式で、日中戦争の半ばから太平洋戦争の終戦まで前線で運用された。
零戦は太平洋戦争初期、2200kmに達する長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた格闘性能によって、米英の戦闘機に対し圧倒的な勝利を収め太平洋戦線の占領地域拡大に貢献し、米英パイロットからは「ゼロファイター」の名で恐れられた。零戦の性能は太平洋戦争初期には米英戦闘機を凌駕した。しかし大戦中期以降には、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、アメリカ陸海軍の新鋭機の大量投入、多数の熟練した零戦搭乗員の戦死によって、零戦は劣勢に追い込まれた。零戦は大戦末期には特攻機としても使用された。

零戦の開発は1937年(昭和12年)9月に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発する。三菱では、前作である九六式艦上戦闘機に続いて堀越二郎技師を設計主務者として開発に取り組んだ。十二試艦上戦闘機に対する海軍の要求性能は、堀越技師らが「ないものねだり」と評するほど高いものであり、ライバルの中島飛行機が途中で辞退した。このような経緯から、零戦は三菱単独での開発となった。

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