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実際にあった出来事、恐怖のミイラ船「良栄丸遭難事故」

未だに謎の解けぬ遭難事故「良栄丸遭難事故」日本版「メアリー・セレスト号」ともいえるこの事故、何故アメリカの救助に答えず、気づかなかったのか。仲間の遺体はどうしたのかが未だに語り継がれる要因である。アワ((゚゚ωω゚゚ ))ワワ!!

更新日: 2013年05月23日

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adukimameさん

1927年10月31日、 カナダ西海岸バンクーバー島。
 ワシントンのシアトル港への帰路についていたアメリカの貨物船「マーガレット・ダラー」号は、行方不明になっていた小型漁船「良栄丸」を発見した。

ボロボロに朽ち果てた船体、ミイラの転がる甲板、激しい死臭、白骨体、足の無い死体。  船室には、頭蓋骨を砕かれた白骨体とミイラがあった。

船室奥の部屋には、おびただしい血痕が染み付いていた。  船尾の司厨室では、海鳥の白い羽が至るところに散らばっており、コンロの上にあった石油缶の中には、人の腕が入っていた。  船内には食物も飲料水も無く、エンジン機関部は全て破損していた。

船長室から見つかった3冊のノートには、信じられない惨状が書かれていたのだった。  そのノートによると、良栄丸の情報は以下の通りだ。

重量は19tで1本マスト
船主は和歌山県の藤井三四郎
船長は三鬼時蔵
機関長は細井伝次郎
乗組員は12名

神奈川県の三崎港を出港したのは1926年12月5日 なんと約1年間漂流していたのだ!!

((ノ)゚ω(ヾ))乗組員は12名のはずだが、船には9名の遺体しかなかった。 航海日誌にも遺体を水葬にしたなどの記述がない

現地の医師が、最後に生き残った2名の間で食人が行われた可能性を示唆。

当時のアメリカの新聞では良栄丸の「食人」が取り沙汰され、後に日本の雑誌でもそれは取り上げられました。 80余年経った現在でも、「良栄丸遭難事件」の恐怖は語り継がれ、ネットの海を漂っています

残された日記、遺言からわかること

西に戻ろうと努めたが、再び季節風が吹き出して徒労に終わった。救援も得られず、船長は漂流を決意し、船に積載した食糧や漁獲した魚などから4ヶ月は食い延ばす事とし、船員らも同意した。

その後も他船の救援無く、(日誌には漁船、貨物船、外航船を目撃しフライキ(大漁旗)や焚火で救難信号を出した記述がある

航海日誌によれば、途中4隻の船を発見し救援を求めるもことごとく気づいてもらえなかった、とある。

しかしアメリカ軍関係者によると、1927年1月上旬、日本から約1600キロ離れた海上で航行不能になった日本漁船(良栄丸かは不明)を発見し、3時間ほど横付けして位置などの説明をしたが、救助は拒否されたという。

「1926年12月23日、シアトルから約1000キロの太平洋上で波間に漂う木造船を発見したが、救助信号を送っても返事が無いので近づきました。

※しかし、良栄丸の船窓や甲板に立ってこっちを見ていた10人ほどの船員は、誰一人として応えず、馬鹿らしくなって引き上げたのです」※

23日に見つかってるのに
みんな応えない
日記は続く
不思議

航海日誌概要

1926年(大正15年)

12月 5日、神奈川県の三崎漁港を出港。
銚子の沖合いを目指すつもりが天候が悪く銚子港を目指す。

12月 6日、銚子港へ一時入港。

12月 7日、銚子港を出港。以後銚子沖で漁に励む。

12月12日、突如機関クランクシャフトが折れ、航行不能に。
そこに西からの強い季節風が追い討ちをかけ、船は沖へ沖へと流される。

12月15、16日の2日の間に「紀州船に似た20トンくらいの船」「東洋汽船会社の船」「同業の肥州舟」の三隻の船を発見。

大漁旗を揚げ、火を焚いて大騒ぎしたが、しかしいずれも良栄丸に気づくことなく過ぎ去った。

12月20日の記述

「二十日朝八時に至り風北にしておだやかなり
西風毎日強い故思ひ切つてアメリカへ乗出といふ太い事を船長が相談を致した所、まだ落合つかず兎に角アンカ三丁上る事にした
十八日午前一時より廿日午前六時まで五十四時間流した

責任のない人はどうでもよいが嫁内小供のある人は実にお気の毒である
又国元の方でも一方ならぬ大さわぎある
何にしても約束であるとあきらめ居てる

親のばちが子にくる
昔々古人の伝へこの十二名は誠に因念の悪いものである
万一助かつたればそれこそ今度は皆大難を通越し運勢朝の昇る如し

サヨナラ」

万が一の時の為の遺書をここで書いている

※12月26日、良栄丸はついに東へ、アメリカへと舵を取った。
この日から元号が「大正」から「昭和」になるが、船員たちが知る由は無かった。

↓以下、良栄丸よりみつかった日記の実際の内容である・・・・↓

「12月27日、沖の大海へ出ると波も風も何も無い。
もう外国と日本の中ほどにまで流されたのではないかと不安が募る。」
「12月27日。カツオ10本つる」
「1月27日。外国船を発見。応答なし。雨が降るとオケに雨水をため、これを飲料水とした」
「2月17日。いよいよ食料少なし」
「3月6日。魚一匹もとれず。食料はひとつのこらず底をついた。恐ろしい飢えと死神がじょじょにやってきた」
「3月7日。最初の犠牲者がでた。機関長・細井伝次郎は、「ひとめ見たい・・・日本の土を一足ふみたい」とうめきながら死んでいった。全員で水葬にする」
「3月9日。サメの大きなやつが一本つれたが、直江常次は食べる気力もなく、やせおとろえて死亡。水葬に処す」

「3月15日。それまで航海日誌をつけていた井沢捨次が病死。かわって松本源之助が筆をとる。井沢の遺体を水葬にするのに、やっとのありさま。全員、顔は青白くヤマアラシのごとくヒゲがのび、ふらふらと亡霊そっくりの歩きざまは悲し」
「3月27日。寺田初造と横田良之助のふたりは、突然うわごとを発し、「おーい富士山だ。アメリカにつきやがった。ああ、にじが見える・・・・。」などと狂気を発して、左舷の板にがりがりと歯をくいこませて悶死する。いよいよ地獄の底も近い」
「3月29日。メバチ一匹を吉田藤吉がつりあげたるを見て、三谷寅吉は突然として逆上し、オノを振りあげるや、吉田藤吉の頭をめった打ちにする。その恐ろしき光景にも、みな立ち上がる気力もなく、しばしぼう然。のこる者は野菜の不足から、壊血病となりて歯という歯から血液したたるは、みな妖怪変化のすさまじき様相となる。ああ、仏様よ」

「4月4日。三鬼船長は甲板上を低く飛びかすめる大鳥を、ヘビのごとき速さで手づかみにとらえる。全員、人食いアリのごとくむらがり、羽をむしりとって、生きたままの大鳥をむさぼる。血がしたたる生肉をくらうは、これほどの美味なるものはなしと心得たい。これもみな、餓鬼畜生となせる業か」
「4月6日。辻門良治、血へどを吐きて死亡」
「4月14日。沢山勘十郎、船室にて不意に狂暴と化して発狂し死骸を切り刻む姿は地獄か。人肉食べる気力あれば、まだ救いあり」
「4月19日。富山和男、沢村勘十郎の二名、料理室にて人肉を争う。地獄の鬼と化すも、ただ、ただ生きて日本に帰りたき一心のみなり。同夜、二名とも血だるまにて、ころげまわり死亡」

「5月6日。三鬼船長、ついに一歩も動けず。乗組員十二名のうち残るは船長と日記記録係の私のみ。ふたりとも重いカッケ病で小便、大便にも動けず、そのままたれ流すはしかたなし」
「5月11日。曇り。北西の風やや強し。南に西に、船はただ風のままに流れる。山影も見えず、陸地も見えず。船影はなし。あまいサトウ粒ひとつなめて死にたし。友の死骸は肉がどろどろに腐り、溶けて流れた血肉の死臭のみがあり。白骨のぞきて、この世の終わりとするや・・・・」

日記はここで切れている。
 だが三鬼船長は、杉板に鉛筆で、以下のような家族宛ての遺書を残していた。

「とうさんのいうことを、ヨクヨク聞きなされ。もし、大きくなっても、ケッシテリョウシニナッテハナラヌ・・・・。私は、シアワセノワルイコトデス・・・ふたりの子どもたのみます。カナラズカナラズ、リョウシニダケハサセヌヨウニ、タノミマス。いつまで書いてもおなじこと・・・・でも私の好きなのは、ソウメンとモチガシでしたが・・・・帰レナクナッテ、モウシワケナイ・・・ユルシテクダサイ・・・・」

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