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日本国地図の歴史的変遷〜やっぱ伊能忠敬って天才だわ。凄すぎる・・・

伊能忠敬は56才を過ぎてから17年間をかけて全国を歩ききった、その不屈の精神力とパワーに脱帽・・・

更新日: 2014年08月18日

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hina0101さん

▼伊能図以前の地図など

行基図

最古の行基図とされているのは、延暦24年作成と伝えられているものであるが、原図は既に亡く、現在伝わるものは江戸時代の有職故実研究家藤貞幹(藤井・藤原とも、1732年-1797年)の写しのものであり、かつ延暦24年の実情と不一致の加筆が見られる(これが藤貞幹によるものか、それ以前からのものなのかは不詳)。

行基図(ぎょうきず)とは、奈良時代の僧侶・行基が作ったとされる古式の日本地図。ただし、当時に作成されたものは現存しておらず、実際に行基が作ったものかどうかは不明である。ただし、この図が後々まで日本地図の原型として用いられ、江戸時代中期に長久保赤水や伊能忠敬が現われる以前の日本地図は基本的にはこの行基図を元にしていたとされている。このため、こうした日本地図を一括して「行基図」、「行基式日本図」、「行基海道図」と呼ぶケースがある。

慶長国絵図(1591)

江戸幕府は諸国の主要大名に命じて国ごとの絵図である国絵図と郷帳を作成させ、それが古くなると改訂しては幕府文庫(官庫)に収納していた。一国を単位とする国絵図は慶長を初回として正保、元禄、天保年間に幕府が全国一斉に収納事業を実施した。

正保御国絵図(1644)

原本の大半と総図は、皇国地誌編纂中の1873年(明治6年)、皇城火災により消失したが、複製(国立歴史民族博物館所蔵)が伝わっている。

日本全図をみると、北海道以外は縮尺がかなり正確である。しかし、北海道は渡島半島の先端部以外、著しく小さい。

享保日本図(1721)

享保4年、8代将軍徳川吉宗が直々に建部賢弘を召して再訂を命じた。建部は望視(交会法)を用いて主要地点の位置を確定していき、享保8年に完成した。なお、この時には諸大名からの国図の提出は求められなかった。

J・C・ウォーカー「日本図」(1835)

J. & C. Walker: Empire of Japan. (ウォーカー『日本図』)
London 1835年
銅版筆彩 40.5×34.5cm

図の左下にクルーゼンシュテルン、ケンペル等に拠ったことが記載されており、タイトル下の説明にもケンペルの名が見えるが、日本の形状はケンペル図よりも正確性を増している。彫版師J.&C. Walkerの名は右下に記載されており、下部中央の記載によりBaldwin&Gadockが1835年に刊行した地図であることがわかる。

大日本輿地全図略(1853)

大日本国郡輿地全図(1849)

▼そしてこれが伊能忠敬の地図

大日本沿海輿地全図(1821)

沿海・沿道の精密さに較べ、土地の高低などは測定されなかったため、山稜の描写は従来の国絵図のごとく鳥瞰的に描写されており、正確とはいえない。とはいえ、それまで日本で作成されてきた諸地図と較べ、技法の点から見て飛躍的に進歩した精密・詳細・正確な地図であり、いくつかの点を除けば、当時の西洋の地図にもほぼ遜色のない水準であった。

大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)は、江戸時代後期の測量家伊能忠敬が中心となって作製された日本全土の実測地図である。「伊能図(いのうず)」とも称される。完成は文政4年(1821年)。

また蝦夷地北部宗谷附近に関しては、測量術の弟子である間宮林蔵(1780年 - 1844年)の観測結果を採り入れている。伊能は文化15年(1818年)に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ、師・高橋至時の子である高橋景保(1785年 - 1829年)が仕上げ作業を監督し、文政4年7月10日(1821年8月7日)「大日本沿海輿地全図」が完成。全国に渡る緯度・測量結果を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府若年寄に提出された。

この頃、暦局の人々の関心ごとは、“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかったのである。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師弟は考えた…江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか、と。

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