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戊辰戦争の激戦地 鶴ヶ城(つるがじょう)まとめ【八重の桜の舞台 会津若松城】

会津は戦国時代に、葦名・伊達・蒲生・上杉・保科・松平と数多くの大名が治めた歴史があります。幕末の戊辰戦争では旧幕府派(東軍)として最後まで抵抗したため、会津が激しい戦場となりました。悲劇として有名な「白虎隊」はこの戊辰戦争での会津若松城落城でのエピソードです。

更新日: 2018年04月26日

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hina0101さん

戊辰戦争の激戦地としてあまりにも有名な会津若松城。その前身は東黒川館といい、元中元年(1384)、葦名直盛が会津盆地の中心にその館を築いたのが始まり。

現在の若松城

2010年(平成22年)から、黒瓦だった天守の屋根瓦を明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元する工事が行われ2011年(平成23年)3月に竣工した。また、本丸の御三階櫓も併せて復元される予定である。

若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町1-1にあった城である。地元では一般的に鶴ヶ城(つるがじょう)といい、地元以外では会津若松城と呼ばれることも多い。文献史上では黒川城(くろかわじょう)、会津城とされることもある。国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。

歴代城主:芦名 伊達 蒲生 上杉 蒲生 加藤 保科 松平

1.葦名氏。1384年(室町幕府成立後)葦名直盛が黒川城として築城。

2.伊達氏。1589年伊達政宗入城。

3.蒲生氏。1590年(秀吉全国統一)蒲生氏郷会津藩主として入城。1593年七層の天守閣完成。又、城の名を鶴ヶ城と命名。

4.上杉氏。1598年(秀吉死去)上杉景勝入城。

5.蒲生氏。1601年(関ヶ原の戦い翌年)蒲生秀行が再び会津に入る。

6.加藤氏。1627年伊予国松山城から加藤嘉明が会津に転封。1639年天守閣を五層(現在の姿)に変更。

7.保科氏。1643年三代将軍家光の弟、保科正之(会津ではNHK大河ドラマの主役に!署名運動展開中)が転封。

8.松平氏。1696年将軍の命により松平姓と葵の紋を用いる。1868年松平容保鶴ヶ城開城。1874年鶴ヶ城廃城。1965年鶴ヶ城再建。

歴史・沿革

1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。諸説あるが、おそくとも15世紀半ばまでには黒川城(くろかわじょう)、(または小高木城)とその城下が成立していた。以後、代々蘆名氏の城であった。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て、黒川城を中心に広大な版図を築いた。

蘆名氏十六代当主。正室は伊達政宗の曽祖父・稙宗の娘。 幼名は四郎丸。仮名は平四郎。号は止々斎。おもな官位は修理大夫、従四位下。 蘆名盛氏は1541年に父・盛舜から家督を譲られると、翌年には山内氏をやぶり勢力を拡大、やがて会津地方を制圧するまでになった。その後も精力的に領地拡大を行い蘆名氏全盛期をつくりあげた。

天正17年(1589)、芦名氏20代義広の時、伊達政宗が攻略し入城した。天正18年、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が政宗から城を没収し、蒲生氏郷に会津92万石を与えた。

黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年)より大大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備した。氏郷は、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。

1593年(文禄2年)、望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重には「何段にも重なる」の意味もある)の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。近年の発掘調査で蒲生時代の石垣の基底部が確認され、鐙瓦(軒丸瓦)、宇瓦(軒平瓦)、鬼瓦の一部に金箔が貼られたものが出土している。

その後、氏郷の子・秀行が継いだが、慶長3年(1598)重臣の争いのため宇都宮18万石に移封となった。替わって、越後春日山城から上杉景勝(謙信の養子)が若松城主となるが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦で西軍に属したため米沢へ移封となった。慶長6年、再び蒲生秀行が若松城主となったが、秀行の子・忠郷に嗣子無く、寛永4年(1627)蒲生秀行の次男・蒲生忠知が伊予松山城に移り、替わって伊予松山城から加藤嘉明が入った。しかし、加藤明成は寛永20年に改易となり、徳川2代将軍秀忠の庶子・保科正之が出羽最上より23万石で入封した。3代正容の時に松平に改姓し、以後保科松平氏9代が続いて明治を迎えた。

慶応4年(1868)に勃発した戊辰戦争では、最後の藩主・松平容保が官軍に対抗して篭城するが、1ヶ月後に米沢藩の仲介により開城した。この戦いの最中、飯盛山で煙に巻かれる天守を見て城が落城したと勘違いした白虎隊士20名が自刃する悲劇が起こったのは有名である。

▼Googleストリートビューで鶴ヶ城が見れる!

関連豆知識

新撰組は会津にきたんですか?

きました

特に、副隊長の土方歳三は七日町の清水屋という旅館にとまり、傷を癒していますし、3番隊長の斎藤一も市内の如来堂という所で戦っています。また、市内の天寧寺(てんねいじ)には、隊長の近藤勇の墓もあります。

斎藤一も来てるし、近藤勇の墓が会津に!

土井晩翠が詞を構想したとされる宮城県仙台市の青葉城址、同じく福島県会津若松市の鶴ヶ城址、また、当時、リンゴ狩りに訪れた際に立ち寄った岩手県二戸市の九戸城址、そして瀧廉太郎が曲を構想したとされる大分県竹田市の岡城址、同じく富山県富山市富山城西側にそれぞれ歌碑が設置されている。

荒城の月のモデルにも。

なぜ赤い瓦になったかというと、今からちょうど400年前の1611年に会津地方で大きな地震がありました。その地震でお城が倒壊し、傾いてしまったそうです。その当時の会津初代藩主、加藤嘉明の長男、加藤明成という人物が、雪が降っても割れないという新潟と福島の県境で採れる赤い土で作らせたので、赤瓦になったそうです。

今は見事復元されています!

この知恵の山川、悲壮なお話の多い会津戦争にあって・・・唯一痛快な出来事を起こしています。
それは・・・新政府軍により鶴ヶ城が包囲される中・・・地元に伝わる彼岸獅子の姿で堂々と入城するというできごとです。これを指揮したのは山川大蔵、白虎隊士(白虎隊知っていっても340人近くあって・・・飯盛山で自害したのはそのうちの19人です)で東京帝国大学総長になった山川健次郎の兄。。。そ、山川大蔵の弟は、白虎隊士なのです。

戊辰戦争後の会津の人々の顛末はロマンがあります。

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