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MrYukicksさん

欲望を創造するファッション

ファッションとは、ほんとうに隠されるべきものは何もない身体に、隠すべきだという解釈を付け加えることで欲望を緻密に作り上げたもの

ひとはなぜありのままの身体に満足できないのか??なぜ装飾したり着飾るのか??それは人生に根拠がないからだと説く。
究極の真理(生きることの根拠)がないことを隠すため、ないことを思考し絶望することを避けるために気分をそらす対象を緻密に作り、欲望をでっち上げる。
ファッションとは、ほんとうに隠されるべきものは何もない身体に、隠すべきだという解釈を付け加えることで欲望を緻密に作り上げたものなのだ。

服は人に見せてはいけないものと見せていいものとを人為的に決める。また、強調・分断することで、違いを作り、より欲望を刺激するアナロジーを創造させる

服は人に見せてはいけないものと見せていいものとを人為的に決める。また、強調・分断することで、違いを作り、より欲望を刺激するアナロジーを創造させる。
僕らの社会で性や生殖にかかわる部分が過剰に巧妙に慎重に回避されるのにも、でっち上げの面がある。

フランスの思想家ロラン・バルトは、男子高校生・推理小説ファン・哲学者が共通点をもっているという。それは、今みえているものの覆いをはがしていくことで究極の真理にたどり着くという物語に魅了されているということ(女性の生殖器・犯人orトリック・真理)。しかし、最終的な真理というものは暴露されればたいして意味のないことが殆どだ。
男性と女性の外見は想像するほどかけはなれているわけではないが、そこに明確な違いを作り性の違いを隠すことによって欲望の対象を作る。真理があると思わせることで、気分をかきたてる。そういうものが世の中にはたくさんあるが、その中のひとつがファッションなのだという。

僕らの乏しい身体解釈を社会的な意味で何重にも包装し、強化する

また、ファッションは自分と社会との距離を探すために使われているという。僕らが他人と接しているときに感じている自分自身の身体イメージ《像》がとても心もとない。僕らにとって自分の身体はじかにはみられないところがある。例えば、顔(鏡で左右逆)、背中、後頭部、内側の内蔵、他人に接している時の無防備な表情など。僕らが知覚している情報は断片でしかない。そう考えると、僕らの身体というのは知覚情報も乏しいし思うがまま統御もできないという意味では想像以上に遠く隔たったものなのだ。僕らは「この僕の身体って離れてみればこんな風にみえるのかな」っていう想像した全体像で他人と接している。

だから、他人に怪訝そうな表情で見られたり全身を嘗められるように見回されたりするだけで自分の身体像は揺らいでしまう。僕らはその不安なイメージを身体のもろさを補強するために色々な手段を行使する。その一つが服を着ることなのだ。僕らの乏しい身体解釈を社会的な意味で何重にも包装し、強化するのだ。自分がだれかという意味付けを与えていくこと、要するに性別、性格、職業、ライフスタイルを目に見える形で表現していくということだ。

服を着るということは、自分の身体イメージと社会秩序とのすり合わせをするということ

人が服を着るということは思春期に始まる。生まれてすぐではない。この文脈において服を着ることは自分で自発的に服をきることだからだ。子ども時代のファッションはおとなの着せ替え人形でしかない。自分が他人の目にどのように映っているのかを意識しはじめて、不安が始まる。僕らは自分を確定できないまま、自分の表面を社会的な意味の制度的な枠組みとすりあわせる。今まで着ていたものを着崩したりずらしたり、色々な方法で社会と自分とのイメージの格闘をする。服を着るということは、自分の身体イメージと社会秩序とのすり合わせをするということなのだ。

ファッションはあくまでも、文化というでっちあげな要素、自然と思われていて自然ではないもの要素を含む

ファッションは真理を隠すために作られた欲望であり、同時に自分を補強し社会との距離をとる媒体である。しかし、ファッションはあくまでも、文化というでっちあげな要素、自然と思われていて自然ではないもの要素を含む。
正攻法でいえば、自分を規定するには他者の中にいる自分を創造しなくてはならない。ぼくらは自分という存在を自分という閉じられた領域の中に確認することはできない。ぼくらは他者の他者としてはじめて自分を経験できるというところがある。要するに自分の存在が他者にとってわずかでも意味があること、そのことを感じられるかぎり人は自分を見失わないでいられる。

消費と浪費

浪費は満足するが、消費は満足できない

「人類はずっと浪費、すなわち贅沢をしてきた」とボードリヤールは言います。未開社会における祝祭もそうだし、中世貴族やブルジョワもずっと贅沢をしてきた。ところがボードリヤールはこうも言うのです。「人類は最近になってまったく新しいことをはじめた——それは消費である」と。

消費と浪費の違いについてのボードリヤールの定義は非常に面白い。浪費の特徴は「それがある程度のところで止まるところにある」と言うんですね。必要以上にものを受け取ったりすることは、総じて浪費です。しかし、腹十二分目に食べたり豪勢な食事ができたとしても、限界がありますよね。そしてそこには「あー、美味しかった」という満足がある。すなわち、浪費は満足をもたらす時点を迎えるとそこで止まってしまうのです。
それに対して、「消費は止まらないんだ」とボードリヤールは言います。「なぜなら、ものを受け取っていないからだ」と彼は続けます。消費行動において、人はものを受け取らない、人が消費行動において受け取るのは希望、あるいは観念や意味である、と。これらは情報と置き換えてもいいかもしれません。彼はわざと哲学っぽいややこしい表現で、「消費は観念論的な行為である」なんて言っています。

浪費としてのファッション

服飾はすべて装飾でしかない?

人類学では「人間の行動というのは実はすべて儀礼的である」という考えがあります。人間はほとんどの行動を考えずにやっています。結局は儀式として昔からやっているからにすぎない。人間は儀式的でしかないことに後から頭を使って有用性をひねり出してきたんです。でもそれは後からつけられたものでしかない。人間の行動が儀礼的であるということと服飾も同様だと考えると、服飾はすべて装飾でしかない、と言えるのではないでしょうか。

ファッションは消費的であるのか、本質的に装飾であるのか

ここで最初の問いに戻ると、最初にぼくが言った意味でファッションが消費的である可能性はもちろんあります。流行っているからという理由で買うのは消費的なファッションです。でも、そもそもファッションは本質的に装飾であって実質や機能性というものはそのあとでくっつけたられたものだとしたら、ファッションというのは本質的に消費というわけではないということになりますよね。

飾り立てたいって気持ちに直結するもの

つまり、実質的なファッションとそうではないファッションがあるのではなくて、ファッションというのはそもそも最初から装飾なんだと。そうするとファッションが必ず消費だなんてことはなくて、やっぱり、もともと最初から人間が持っている、飾り立てたいって気持ちに直結するものなんだといえるんじゃないかと思うんです。

本質的に装飾である衣服が我々に満足感を与える

ぼくが一番問題提起として考えたいのは「服を着る満足」についてです。いい服を着ると、気持ちいいとかです。・・・
衣服というのは本質的に装飾である、その本質的に装飾である衣服が我々に満足感を与える時がある。じゃあその満足感って何なんだろうか。それは装飾の欲求を満たしてくれることかもしれない。でも、それだけじゃない。着心地とか肌触りとかもある。

浪費としてものを得るときには、対象との間に対話やフィードバッグがある

本当にヴィトンを愛していて、「ここのステッチがさーすごくいいんだよ」という人…ぼくもそういうタイプなんだけど、好きなものは持ち主に応えようとしてくる…着心地のことにしても、自分が動いたときにこうあってほしいという動きをしてくれる、リアクションがあるというか。もののほうから語りかけてきてくれて、こっちもそれを何とか拾おうとするという感覚。その気持ちを持てるかどうかというのが違い…自分ともの、あるいは自分とものを作った人との間の対話だと、人の目がそこに入りにくい。

どういう服を着るかというのは自分がどういう風に生きていくかってこと

今、服を選ぶとき毎回わりと「これだな!」というのがあるんです。自分のスタイルを発見している感覚があるんですね。さっきコスチュームとクチュームが実は同じだって言いましたけど、これは自分のクチュームですよね、自分の習慣。自分が生きていくための道をうまく発見していくことができた気がしている。どういう服を着るかというのはそれと全く同じことなんだよね。
どういう服を着るかというのは自分がどういう風に生きていくかってことだから、うまく服を発見できたら服との対話が起こる。自分が生きている場所でこういう服を着て他の人と対話をしてという、まわりとの一体感も出てくる。

自分のコスチュームでありクチュームになっていく服というのが、たぶんすごい満足感を与えてくれるものなんじゃないか

ヴィトンのバッグを持っている子って、おれが長髪にしていたのと一緒なんだよね。「ロックっぽく行くぜ!」とやってみたものの、ぜんぜん自分に合わない。自分の価値観じゃなくやっていたってことですよね。それは自分の生き方になっていかない。自分のコスチューム、クチュームになっていかない。自分のコスチュームでありクチュームになっていく服というのが、たぶんすごい満足感を与えてくれるものなんじゃないかな。

ハイデッガーという哲学者がいますよね。たぶん彼はファッションなんてくだらないと思っていたはずです。写真でも、ボーイスカウトみたいなすごく農夫的な格好をしている。でもこの前、中沢新一さんが言っていたんだけど、「あれは完全に演出してるよ」って。「おれは哲学者だけど農夫なんだ」と。そういう服を着て存在について思考することが彼の生き方だったわけです。だから農夫の服と彼の思考というのは切り離せないと思うんです。

自分の生き方、習慣、スタイルというものと服は切り離せない

自分の生き方、習慣、スタイルというものと服は切り離せない。うまく見つかったとき、ものとのいい意味の対話がある。そうなれば、自分はこういう人間なんですよとうまく人に見せることも、うまく見てもらえるようにもなる。コスチュームとクチュームは一緒だということ。

消費としてのファッション

過激にモードの様相をもつようになった・・・大量消費社会

ファッションは真理がないことを隠すために、また自分を社会的に補強するために使われてきたが、現代のファッションを知る上では現代が大量消費社会であることも考えなくてはいけない。
大量消費社会なったことによって、ファッションはより過激にモードの様相をもつようになった。大量消費社会のシステムの狙いとは、シーズン毎にモデルチェンジをし、広告と言う媒体を使い消費のアクセルを踏むことをとおして経済的な繁栄をつかむこと。

身体に合わせてのモデルではなく。モデルあっての身体

世の女性は、モデルと呼ばれる広告に群がって、それを参考に規格外れの身体を一片の木を削るように形をととのえたり、装飾したりしている。そこには身体に合わせてのモデルではなく。モデルあっての身体だ。彼女たちはスリムな身体とかしなやかな身体など、身体の理想的なモードを求めてエクササイズ、フィットネス、シェイプアップし、エステティックや入浴ですべすべお肌にする。そして、理想のシルエットを強くイメージした服を身につけ、外見を操作して、服を着たり化粧をする。

モードは前デザインを否定し新デザインを肯定する連続

しかし、モードほど表層的なものはない。モードは前デザインを否定し新デザインを肯定する連続。肯定されたものもいつかは否定される。その回転が現代は速い。欲望という意味でモードの服を着るということは刺激的だが、社会との距離をつかむという点では自分を補強するのは厳しいのでないかと推測する。モードとは現代という時代の空気を着ることだが、それは表面的で空しい要素を含むものだからだ。

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