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テレビドラマとは違う!?山下清の素顔

【山下清】テレビで見るのと違う山下清の一面をまとめました

更新日: 2014年03月30日

memeko07さん

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山下清

山下 清 1922年(大正11年)3月10日 - 1971年(昭和46年)7月12 日本の画家

現:東京都台東区日本堤)に、大橋清治・ふじの長男として生まれる。
翌年には関東大震災によって田中町一帯が焼失すると、両親の郷里である新潟県の新潟市(現:中央区)白山に転居する

幼少期

3歳の頃に重い消化不良で命の危険に

一命こそ取り留めたものの、軽い言語障害、知的障害の後遺症を患う

温厚な性格

温厚な性格の清は、子供たちからの虐めには取り合わず、虫取りや家にこもって絵を描くなどの孤独な毎日を過ごしていましたが、虐めがエスカレートするようになり、ついに暴力沙汰を起こすようになっていきました

級友のいじめに遭い、その際ナイフで級友を傷つけた

小学生の頃、級友のいじめに遭い、その際ナイフで級友を傷つけたため、千葉県市川市の知的障害者養護施設 八幡学園に収容される。この八幡学園で清はその才能を開花させていく。

復讐をしたり園内や近くの畑で盗みをする

意地悪な園児の学用品や衣類を隠したり
川に投げたりといった復讐をしたり園内や近くの畑で盗みをするといった
行動も見られた

山下清を名乗るようになる

1934年(昭和9年)の春、夫が不在の間に母ふじが清を含む子供3人を連れて北千住(足立区千住)の木賃宿へ逃れるも、生活の困窮で、すぐに杉並区方南町(現:杉並区方南)にある母子家庭のための社会福祉施設「隣保館」へ転居。この頃に母ふじの旧姓である山下清を名乗るようになる

放浪のきっかけ

山下清が放浪に出た理由は「学園生活の飽き」

さらに放浪を続ける原因となったのが「戦争出征回避」でした。しかし、もっと根底にあったものは自由でいたいという願望でした。

もうじき兵隊検査があるので

清の日記には、
「もうじき兵隊検査があるので もし甲種合格だったら兵隊へ行ってさんざんなぐられ戦地へ行ってこわい思いをしたり 敵のたまに当たって死ぬのが一番おっかないと思っていました」
と書かれています。

絵を描くための放浪じゃない

自由でいたいという願望

清の放浪生活は、暑い季節は北へ、寒くなってくると南下するといった、まさに本能の赴くままの旅です。そして、この放浪で清が求めたものは、何もしないで「ぼやっ」としている時間であり、この「ぼやっ」としている時間こそ、清の自由な空間だったのです。

テレビドラマとの違い

人並みはずれた記憶力

放浪先で絵を描きながら人と触れ合っていくと言う感動を与えるようなストーリーだった事を覚えていますが、実際はほとんど絵を描いていなかったのです。山下清は、旅先で見た風物を脳裏に鮮明に記憶して、実家や八幡学園へ帰ってから、そのイメージを描いた物でした。数ヶ月間、時には数年間の放浪生活から帰った後、その脳裏に焼きついた風物を鮮明に再現したといわれます

超が付くほどの几帳面な性格

作品を制作するときも、自分で決めた作業時間を忠実に守ります。
 また、いたずらが大好きで、負けず嫌い。相手が子供といえども絶対に手を抜かず、トランプでも何でも自分が勝つまでやめません。

本当はとてもおしゃれ

放浪時代は着の身着のままの姿でしたが、ほんとうはたいへんオシャレで服装にも気をつかっていました。マスコミにその言動が注目されるようになると、自分がどう扱われているかとても気にするナイーブな一面もありました

放浪中にぶらりと学園に戻ってきたときに、毎日貼絵をした

毎日の作業として課せられていたのである。夕食後の日課として、千字の文字を書いて先生に見てもらう。そうしないと床に就けない。寝るために彼は懸命に思い出して書いたのだろう。貼絵を作り、日記を書くと、彼の頭の中には次に逃げる計画が、盛り上がってくるのだった

作品

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