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【垂直の】山野井泰史氏が挑んだ山、大岩壁まとめ【記憶】

七大陸最高峰?何それおいしいの?

更新日: 2016年09月09日

Truvativ1さん

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ペルーアンデス、ワイワッシュ山群の5440mの山の未踏壁。
2013年6月に事前により高い5880mの山で馴化し、万全の体調を整えて挑んだ。

シュガースノーと脆い岩に苦しめられたものの、「3年前から考えていた」というルート取りでパートナーの野田賢とともに1ビバークで登頂に成功。
初登頂者が名づけるルート名は「クンピールガンスウエミョンガンダ」となった。

この1週間後には5653mのトラペシオ峰南壁も14時間で登頂。「マジック・ベル」のルート名が付けられた。

標高差1500mの岩壁
「久しぶりに見ほれてしまうほどのすばらしい山」だったが、クレバスに墜落などのトラブルもあり、3度のアタックで頂上まで900mを残した5700m地点で敗退。

「心と体の高所に対応する能力が落ちてきているのが決定的になった」「長年の高所登山の影響で痛めつけられ回復しきれないうちに徐々に弱くなってきたのかも」と残念がる。

当初クーラ・カンリⅠ峰北壁の予定だったが、雪崩の危険が大きすぎるために隣の山に転戦。 6300m地点で敗退した。

「山の状態も体調も悪かったので登れなかったのは仕方ないが、いつにもなく行動中に自分の能力に疑問を感じていた」とヒマラヤの高所クライマーとして終わってしまったのではないかと悲しい気持ちになったという。

ハンテングリの直後に向かった4520mの岩峰。
悪天候に見舞われ登りより下りで激しく消耗してしまったという。

夕陽を受けて真っ赤に輝くため「血の山」と言われるキルギスタンの高峰。 
快適なBCにフィックスロープが設営済みのノーマルルートと本人のスタイルとは全く違う登山だったが、翌年に向けた予行演習としてギャチュンカン以来6年ぶりとなる7000m峰の挑戦。
BC入りから二週間であっという間に登頂。

取り付きから1300m近く垂壁が続く北極圏の大岩壁。

2007年にギャチュンカン北壁での凍傷以降、夫婦で挑んだ初の岩壁。
未踏のビッグウォールクライマー、凍傷で指を切断したという同じような経歴のベテラン・木本哲をパートナーに加えて見事初登頂。

http://www.climbgreenland.com/index.php?id=1173&type=89

2002年にクライミングが許可されたばかりだが、予想外の難易度で標高の割に登頂者は非常に少ない6000m峰。

ギャチュンカン以降久々となるネパールヒマラヤ遠征だったが、氷の状態が悪く、予想外の厚雪とオーヴァーハングに遮られ敗退。
「三分の一も進めなかったかもしれず、帰ってきたときにはヒマラヤ帰りとは思えないほど衰えていなかった(それだけギリギリまで登れなかった)」と不満の残る遠征になってしまった。

チベットのポタラ宮に似ている事から名づけられた四川省・スークーニャン山群の山。

最初のチャレンジでは雨続きで体力を消耗し敗退したものの翌年の挑戦で初登頂。 

 凍傷で手足合せて10本以上の指を切断した後に挑んだ最初の未踏壁。

氷河の奥深くでBC設営も困難なため登頂も難しく殆ど登るもののいない山。

2002年に挑みポーランドルートの第二登を果たすものの下山中に雪崩の直撃を受け負傷。視力を失い素手で手がかりとなるクラック(岩の割れ目)を探すという壮絶な死闘の末にBCまで自力で下山。 通訳兼BCコックは遭難死と判断しリエゾンオフィサーに通報していた。

妙子夫人、クルティカのチームで新ルートを登攀。

悪天候続きでラトックⅠ峰を断念したのちに登攀したが、最強クラスの三人にとっては易しく物足りない山だったようで、名づけられたルートは「ジャパニーズ=ポーリッシュ・ピクニックルート」 だった。

「ポーランドの哲人」ヴォイテク・クルティカとパートナーを組み挑んだものの悪天候続きでほとんど登山活動に入れないまま撤退。

1980年に重広恒男、松見親衛らが初登頂したものの以降30年以上登頂がなされぬまま。山岳関係者の間で「世界一難しい山」と指摘する人も。

世界第二位の高峰だが、登頂率の低さ、死亡率の高さから「エベレストよりはるかに難しい」と知られている。

2000年に東壁攻略の予定で入山したが悪天候の為断念。同行のクルティカは先に帰国するものの、「このままでは帰れない」と南南東リブに転進、なんとBCから48時間で登頂した。

ドイツの山岳雑誌が世界の登山家・探検家・旅行家にアンケートを取り、「世界一美しい」と評された山。
登頂した際には山頂にブラジャーが結び付けられていたとの事。

ドメン・コーラから氷河内院に入り北西壁を上がるルートだが、1971年に日本隊が北西稜を通るルートを登頂して以来条件が悪すぎて誰も近づきすらしなかった。
 
「アイスフォール帯に無数のセラックが立ちはだかり以前よりさらにコンディションが悪くなっていて嫌な予感がした」通り、壁の取り付きから4時間で雪崩の直撃を受けて300m近く飛ばされた上に生き埋めになって重傷を負い敗退。

「2人で300万も払っていたのでおいそれと引き返せなくなり判断を誤った」
「自殺行為。 壁を見たとたん引き返すべきだった」と反省の言葉がが尽きない。

標高差1200mの氷と岩の壁。
ロープなし、ギアなしの完全フリーソロで20時間で登頂。

標高は7143mながらヒマラヤでは10指に入る難しい壁と言われている。
「理想のクライマーになれないと判ってしまった」マカルー敗退後に挑んだが、スランプに陥ったか6100mで敗退。

デスゾーン手前から山頂付近まで垂直の岩壁~オーバーハングが続くという人類の限界を超えたルート。 世界の一流クライマーが挑んだが全て敗退している。

1996年に満を持して挑んだものの、「フリーで登るのは不可能、多量のギアを持てばスピードが落ちてリスクが上がる」というジレンマの通り落石の直撃を受けて負傷し核心部に至らず敗退。 

「どのようなトレーニングを積めばいいのか判らない」と難しさを語っている。

パキスタン・フンザ地方にある5900mの怪峰。 人差し指をつき立てたようなその形状から「レディースフィンガー」の異名をとる。 

1995年に長尾妙子、中垣大作の3人で未踏の正面ウォールを攻略し登頂に成功。 雪山と違い水分を途中補給できない為非常に困難な登攀となり、12日間を要した。  8日分の食料・燃料を使い果たし飲まず食わずの状態になった為、初登者が名づけるルート名は「ラマダン(断食)」で、思い出は「とにかく腹が減った」とのこと
なお、2年後に友人の松岡清司が単独登攀に挑んだが岩雪崩に遭い遭難死している。

8000m峰では比較的難易度が低いとされ、エベレストの前哨戦として選ばれることの多い山だが、それはノーマルルート(西稜)の話。 南西壁は2200m近い大岩壁の超難ルート。
1990年にクルティカ・トロワイエ・ロレタンの「最強トリオ」が初登頂したのに続き、1994年に中央を突っ切る新ルートでソロ初登に成功。 中央赤線が山野井によるルート。

悪天候によってガッシャーブルムⅣ峰の登頂を阻まれ下山した後に、事前から誘われていた小西浩文隊のガッシャーブルムⅡ峰遠征に合流。 Ⅳ峰に比べると難易度は低く「二往復できるぐらい余裕があった」が、妙子夫人と登頂できたのはやはり登頂は嬉しかったようで山頂で雄叫びを上げていたと小西隊長は述懐している。

7000mまで到達するものの、悪天候により敗退。
1985年に挑んだクルティカも西壁を完登するものの登頂に至らず撤退している。
遠征資金稼ぎの為に富士山で荷揚げのバイト中に落石で重傷を負い当初の予定から延期を余儀なくされるなどどうにもついていない山だった。

山野井氏は直後にⅡ峰に転進し登頂。「Ⅳ峰に比べれば散歩のようなもの」とか。

8000m峰デビュー。 
その後も8000m峰で活躍する小西浩文氏らと共に登頂。
ノーマルルート、極地法と本人の志向とは正反対の上、多人数での軋轢でストレスも多かったようだが、8000mを越える超高所を知る上ではいい経験が出来たとも。

美しい山容で人気の山だが、西壁は非常に難しく当時で完登者はわずか三隊。
当初山学同志会のルートを通る予定だったがコンディションの悪化で通過不能となったため、単独で新ルートを開拓し冬期登頂。 一度登ったら引き返すのもビバークも難しいため休み無く動き続け一気に登頂するしかないという非常に厳しい登攀だったが、メラピーク敗退直後で体調を崩し、高熱で意識不明寸前の状態からリカバリーしての死闘であった。

エベレストの事前馴化のために登られることもある山だが、西壁は1600mの標高差のある超難関の大岩壁。
一度目はバイルが折れ敗退、二度目のアタックでは4日かけて800m登攀したものの進行不能となり稜線まで残り300mの地点で敗退。
富士山の荷揚げ中に負傷した足が完全に回復しないままとはいえ、ヒマラヤの単独登攀デビュー戦はほろ苦い敗退となった。

あまりに厳しい登攀だったためか、この後体調を崩し発熱・下痢と嘔吐の症状に襲われ「トレッカーにも追い抜かれる」ほどの体力低下を招いてしまう。

アジアを代表する韓国最大の氷瀑。ヨーロッパアルプスを思わせる山並みが背後に見え、「数ある韓国の氷瀑でも別格」と人気が高い。

「アイスクライミングにばかり凝っていた」という1991年に遠征。一週間に満たない短い滞在だったが、氷は良質、飯は旨い、宿も暖かと万事快適な遠征だったそう。

「夏はたくさん人がいるので」なんと厳冬期の7月に遠征。 最初のチャレンジでは敗退したものの翌年に単独で登頂に成功。
気温-30℃、常に30m/sの強風という極限状態での登攀だった。

なお、この遠征の時だけスポンサーを得ようとしたが、南半球のマイナーな岩壁登攀に理解を示すスポンサーは現れず、以降スポンサー探す事自体止めてしまったという。

アルプスやエルキャピタンでは「冒険的な部分が足りない」と、1988年、ついに辺境の岩壁に乗り出した。
カナダの北東に位置するバフィン島にある標高差1400mの岩壁で、「しょっちゅうトラックぐらいの石が落ちてきた」非常に緊張を強いられる登攀だったという。
1984年に日本登攀クラブが初登攀したのとほぼ同じルートで単独初登。 9年後にソロで挑んだ友人の阿部剛は遭難死している。

標高は3730mと富士山とほぼ一緒だが1000mの岩壁が続く

単独初登。

クライマーの聖地として知られる大岩壁。
不法就労、シャワーは1週間に一度、夜は空缶拾いをしてリサイクルセンターで換金という「クライミング・バム」そのものの生活をしながら、数々のルートを登攀。

国内編

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