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歴史に語り継がれるバックレ!敵前逃亡〜第二次世界大戦末期の日本軍司令官

事の真相はともかく、語り継がれている「敵前逃亡」があります。

更新日: 2013年04月13日

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hina0101さん

▼「敵前逃亡」とは

戦時に兵士が脱走すること。利敵行為と並ぶ重罪で、どの国の軍法でも極刑に処される。交戦中の戦線離脱のみならず、陣地からの脱走などにも適用される。平時に駐屯地等から脱走するのは「陣中逃亡」と呼ばれる。こちらはさほどの重罪ではない。

▼第二次世界大戦での指揮官の「敵前逃亡」!

しかしいずれも左遷程度の軽い処分で済まされ、軍法会議になった事案は殆どない。富永に関しては、逃げてきた人間を予備役に編入するのはおかしいということで、懲罰的に満州へ異動させたとされるが、これもやはり左遷の一種であり、軍法会議などを経た公式な処分(銃殺刑、懲役刑)ではなく、緩い処分の範疇でしかない。

寺内寿一

寺内 寿一(てらうち ひさいち、旧字体:寺內壽一、1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日)は、日本の陸軍軍人、政治家。最終階級は元帥陸軍大将。勲等は勲一等。爵位は伯爵。山口県出身。
第18代内閣総理大臣などを歴任した元帥陸軍大将寺内正毅の長男で、皇族以外では唯一陸海軍を通して親子2代で元帥府に列せられた人物。

南方軍総司令官。一九四四年十月、フィリピン決戦を前にマニラを去り、赤坂の芸妓を軍属として呼び寄せてサイゴンの豪邸で優雅な生活。ルソン島で総力戦を構える山下大将に対し、レイテ島への兵力分散を命じる。三七万という大戦最大の犠牲、うち八七%が餓死。

南方軍総司令官として昭和十九年(一九四四年)十月のフィリピン決戦の時に、自分はマニラを逃げ出し、サイゴンの旧フランス提督の大豪邸に日本本土から軍用機で軍属扱いで呼び寄せた愛人の赤坂芸者を侍らせて、悠々と飲み食いしていた。それだけでなく、フィリピン方面司令官の山下泰文大将の作戦にいらぬ口出しをし、三七万人という犠牲者をだした。
結果は何もおとがめなし。

牟田口廉也

牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年(明治21年)10月7日 - 1966年(昭和41年)8月2日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮した。

インパールの失敗までは、人間性はともかくとして、軍人・将軍としては「有能」であったといえます。また、彼はもともと皇道派寄りな人物としてマークされ、そのために中国に飛ばされた経緯をもっていたので、権謀術数を用いてのし上がったと言うわけでもないようです。

そして作戦自体は案の定大失敗、正論を吐く部下の師団長を次々と首にして強引に継続しましたが結果は惨憺たるもの。数万の兵士が餓死・病死し、日本軍退却の道筋は「白骨街道」と呼ばれました。作戦が大失敗なのは明らかなのにメンツにこだわり、上司のビルマ方面軍最高司令官の河辺中将との会談で、「作戦中止を言いたかったが言い出せなかった。私の顔色からなんとか読み取って欲しかった」と漫画にもならない事を回想で言っています。牟田口も前線部隊が帰還するのを待たないでさっさと日本へ逃げ帰っています。

四航軍の隈部参謀長は豪雨のなかに戦闘機を出撃させたが、ほかの参謀も、することといえば、同じ程度である。それなのに、鼻もちのならないほど威張りかえり、参謀食といわれる特別な食事まで作らせている。ところが敗軍となれば、命令も軍規も無視して、いち早く逃走しようとしている。これは敵前逃亡ではないか。

インパール作戦での牟田口廉也中将による作戦指揮を放棄しての戦域離脱(本人は死ぬまで「後方確保の為の行動」として逃亡の事実を認めなかった)

木村兵太郎

木村 兵太郎(きむら へいたろう、明治21年(1888年)9月28日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、昭和期の陸軍軍人、陸軍大将。太平洋戦争(大東亜戦争)後、A級戦犯として逮捕、極東国際軍事裁判にて死刑の判決を受け、絞首刑に処された。

昭和20年(1945年)、イギリス軍のビルマ侵攻が開始され、ビルマの防衛は危機に瀕していた。木村はイギリス軍のビルマ侵攻を知った時、恐怖で手が震え、何も話すことができなくなるほど動揺し、作戦指導はほぼ不可能な状態に陥っていた。

4月23日、木村は幕僚とともに飛行機でラングーンを脱出、タイとの国境に近いモールメインへ撤退した。南方軍へは無断の首都放棄であった。前線で苦戦する隷下部隊や、日本が支援したビルマ政府のバー・モウ首相、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース主席、自由インド仮政府初代公使の蜂谷輝夫、石射猪太郎駐ビルマ大使以下日本大使館員及び民間の在留邦人、傷病兵などは置き捨てられた。取り残された人々は、陸路で脱出を試みたが、多くの犠牲者を出した(この時、チャンドラ・ボースは常にインド国民軍部隊の殿を歩き、渡河を行うときなどは最後の兵が渡河を終えるまで川岸を離れなかったという)。なお、木村はこの逃避行の後に陸軍大将に昇進している。

ビルマ戦線での木村兵太郎大将の逃亡劇(南方軍に無断で逃亡中に大将に昇進)

富永恭次

冨永 恭次(富永 恭次、とみなが きょうじ、1892年(明治25年)1月2日 - 1960年(昭和35年)1月14日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

富永は東條英機の腰巾着と言われ、徹底して東條にへつらう事で昇進しました。そんな富永を重用した東條も東條です。フィリピンでは陸軍特攻隊の司令官として出撃前の大げさなパフォーマンスに生き甲斐を見出し、特攻隊員に「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と言いながら、エンジン不調などで帰還すると、「卑怯者!命が惜しいのか!」と罵倒しました。

冨永は視察を名目に上級司令部にも無断で突然台湾に単独で後退。一説には、マニラから引き上げてきた司令部要員の大半をエチャーゲの南5キロにあるサンチャゴに足止めし、その間に司令官・参謀などの高級将校たちは残り少ない戦闘機を駆り出して護衛を命じ、フィリピンのエチャーゲ南飛行場から台湾の台北へと続々と逃亡した。積み荷はウィスキーと芸者たちであったという。約1万の第4航軍の残存将兵は地上部隊に編成替えされ脆弱な歩兵部隊となってその大半が戦死した。

富永の台湾への移動は一応口実をつけてはいたものの、直属上官である山下大将にも無断でおこなわれるなど明らかに軍規違反であり、軍規に則れば銃殺刑の敵前逃亡であった。富永の行状は逃亡先の台湾でも知れ渡っており、第10方面軍に申告を行った際、同軍司令官の安藤利吉から「申告は受け付けられない」と拒否されている。また昼間から軍の乗用車に芸者を乗せて走っており、一兵卒でさえ富永に敬礼しなかったという。本来であれば軍法会議が行われるべきところ暫く何の処分も下されなかったが、流石に陸軍中央でも問題になり、2月23日待命、5月5日予備役編入の処置がとられた。

フィリピン戦線での富永恭次中将による指揮下部隊を置き去りにしての敵前逃亡(ウィスキーと芸者連れで逃亡の後温泉療養)

満州軍司令官(第一方面軍 直轄部隊 第百三十九師団)として復活

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