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亡くなった三国連太郎さんの貴重な戦争体験、まとめ

三国連太郎さんが、なくなりました。彼の死を偲んで、インタビューなどから三国さんの戦争体験をまとめました。

更新日: 2013年04月16日

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この記事は私がまとめました

lariat1999さん

三国連太郎さんは、反戦の人。

三國 連太郎(みくに れんたろう、1923年1月20日 - 2013年4月14日)は日本の俳優。本名は佐藤 政雄(さとう まさお)。群馬県太田市生まれ

1923年1月20日、群馬県生まれ。生後間もなく静岡へ移り、中学時代まで過ごす。10代で工員や船員など、さまざまな職業を経験。戦時中は徴兵され、中国方面に出征した。

十四日に亡くなった三国連太郎さんは一九五〇~六〇年代の日本映画黄金期に活躍。その後も「釣りバカ日誌」シリーズの社長役などで人々を魅了する一方、徴兵の経験から反戦の立場を貫いた。

五一年に木下恵介監督の「善魔」でデビュー。「美男子、野性的、インテリ…。奇妙な迫力があった。彼自身は怒れる若者。反体制的だった」と映画評論家の河原畑寧(かわらばたやすし)さん。

根っからの反骨体質、戦争にむかう日本そのものが苦痛だった

僕たちの若いときはそんな時代でした。旧制中学に入ったら制服がカーキ色になって、ゲートルを巻いて登校することが規則になりました。最初はバラバラだった登校が、だんだん整然と乱れなく、歩調をとって歩くようになるわけです。僕はその体質が嫌で、中学に行くのが苦痛でした。

1943年12月、戦争が嫌で徴兵検査に合格するものの、逃げて特高警察につかまる

徴兵検査を受けさせられ、甲種合格になってしまった。入隊通知がきて「どうしよう」と悩みました。中学校の時に、家出して朝鮮半島から中国大陸に渡って、駅弁売りなどをしながら生きていたことがある。「外地にいけばなんとかなる」と思って、九州の港に向かったのです。ところが途中で、実家に出した手紙があだとなって捕まってしまったのです。

出典特集ワイド「この人と」1999年8月掲載(毎日新聞)

三国さんは自著「生きざま 死にざま」(KKロングセラーズ)で「赤紙一枚で死ぬことだけは嫌でした」と告白。若いころ徴兵検査に合格したが入隊する気はなく、逃げて佐賀・唐津の警察に捕まって連れ戻される。

「戦争が嫌で九州の呼子まで逃げましたが、母親に手紙を書いた数日後、家に連れ戻されてしまいました。そして静岡の部隊に入隊することに…。

終戦は出兵先の中国・漢口で迎えた。十年前、本紙記者のインタビューに「病気をして、留守部隊で兵器の修理なんかをしてました。傷病兵の死に際を見て、これが戦争というものか、と疑問に思いましたね」と話した。

特高警察に居場所がわかったのは母親に出した手紙から

僕のせいで非国民と見なされて、家族が村八分になってしまうから、家族と母が涙を飲んで警察に僕の居場所を教えたんです。

母あての手紙でした。でも母を責める気にはなれません。徴兵忌避をした家は、ひどく白い目で見られる。村八分にされる。おそらく、逃げている当事者よりつらいはず。たとえいやでも、我が子を送り出さざるを得なかった。戦中の女はつらかったと思います。

出典特集ワイド「この人と」1999年8月掲載(毎日新聞)

「心配しているかもしれませんが、自分は無事です」という文面です。岡山あたりで出したと思う。たぶん投かんスタンプから居場所がわかったのでしょう。佐賀県の唐津で特高らしき人に尾行され、つれ戻されてしまいました。

出典特集ワイド「この人と」1999年8月掲載(毎日新聞)

徴兵を逃れ、牢獄(ろうごく)に入れられても、いつか出てこられるだろうと思っていました。それよりも、鉄砲を撃ってかかわりのない人を殺すのがいやでした。もともと楽観的ではあるけれど、(徴兵忌避を)平然とやってしまったのですね。人を殺せば自分も殺されるという恐怖感があった。

出典特集ワイド「この人と」1999年8月掲載(毎日新聞)

父はその輪には入っていなかった。玄関で小さな声で私に言った。「何をしてもいい、どんな卑劣なことしてもいいから、生きて帰ってこい」と。これが頭にこびりついて、なんとしても生きなければいけないんだと戦争生活が2年続くわけです。

中国につれていかれるものの・・・仮病を使って戦線を離脱

僕みたいなのを不忠の民というんでしょうね。徴兵忌避で捕まって静岡の34連隊に入りました。中国に出征しても、なぜ自分が前線にいるのか理由づけられない。

毛布で体温計の水銀の部分をこすると、温度が上がるでしょう。38度ぐらいまでになる。当時、医者が足りなくて前線には獣医が勤務していました。だからだまされてしまう。療養の命令をもらって休んだ。また原隊復帰しなくてはいけない時に、偶然救われたのです。兵たん基地のあった漢口(今の湖北省武漢市)に、アルコール工場を経営している日本人社長がいた。軍に力をもっていたその社長さんが僕を「貸してほしい」と軍に頼んだのです。僕はかつて放浪生活をしていた時、特許局から出ている本を読んで、醸造のための化学式をなぜか暗記していました。軍から出向してその工場に住み込み、1年数カ月の間、手伝いをしていた。そうして終戦になり一発も銃を撃たずにすんだのです。

出典特集ワイド「この人と」1999年8月掲載(毎日新聞)

中学の同級だった軍医の助言で仮病を使い、陸軍病院に入院しました。それで命が助かったわけです。一緒に原隊を出発した仲間はその後にガダルカナルに渡り、ほとんど帰ってきませんでした。

原爆、慰安婦、終戦後の強烈な体験

「広島に到着すると、駅のホームから四国が見えた。広島の駅から瀬戸内海を通して、四国が見渡せたんですよ。街がひとつもなく、ただドームだけが残っている。原爆に全て薙ぎ払われて、焼け茶色になっていたんです。原爆や戦争は、何も生み出さない。そこにあるのは徹底的な破壊だけ。映画で僕が演じた医師も、何年も経った現在でも戦争の傷跡を引きずっています」

2年半、中国にいて終戦を迎えたんですが、戦争が終わったと思ったら体中がカッカッしてきましてね、これで生まれ故郷に帰れると思いました。韓国から連れてこられた「慰安婦」の人たちも、どよめいていました。従軍「慰安婦」はいなかったという人もいますが、実体を見たのは僕の錯覚だったのかなと現実に確信が持てませんね。今となっては何が真実か見えなくされてるような気がしますね。

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